風のトポスノート623

 

信じあうことと未来


2007.6.8

 

   私たちは、しばしば組織や社会のために献身的になることが求められる。
  しかし、本音としては利己的に振る舞いたいこともある。その典型例は
  「囚人のジレンマ」という設定である。これは、2人の囚人が別々の独房
  に収監されていて、相手の考えは知らずに自白するか黙秘するかを決める
  状況に由来する。
  (増田直紀『私たちはどうつながっているのか/ネットワークの科学を応用する』
   中公新書1894/2007.4.25.発行 P.92)

  梅田 フューチャリスト的な仕事をしたいと自然に思うということは、未来
  はいいものだと思っているということですよね。未来は明るいはずである。
  いろんなことを努力していけば、全体として未来は明るい、そうあってほし
  い、そういう未来を創り出したいという意識がある。「未来が良いものだ」
  と思わなきゃ、そんなフューチャリスト志向はもてないですよね。
  (梅田望夫・茂木健一郎『フューチャリスト宣言』ちくま新書656
   2007.5.10.発行/P.126)

テレビドラマ『ライアーゲーム』が放映されているが
欺いたり欺かれたり、ひとつの決断が決定的なものになっていく。

「ライアー」とは嘘つき。
一見、嘘をつくことで自分だけが勝ち残っていくことがテーマのように見えるが
おそらくその裏のテーマは、「人を信じること」だといえるのかもしれない。

人を信じたほうがいいか、それとも信じないほうがいいか。
「囚人のジレンマ」的な状況で参加者すべてが利益を得るためには
すべての参加者がお互いを信じていれば、すべてはうまくいく。
うまくいかないのは、お互いを信じられないからなのだ。

『フューチャリスト宣言』という
とても脳天気なまでに楽天的な対談本がでているが、
そこでの前提は、人を信じたほうが
ずっと明るい未来を創造することができるということにあるように感じた。

ごくごく単純にいえば、
人を信じられないということは自分を信じられないということだ。
疑心暗鬼という言葉があるが、まさに疑いの心は暗闇でさまざまな鬼を生む。
ああではないか、こうではないか、
こうなってしまったらどうしよう、取り返しがつかない・・・。

そんな疑心暗鬼のなか、脳天気なまでに楽天的でいられるということは、
たんに単純であるというのでは立ち行かなくなるだろう。
いずれは「疑い」の種が生まれてしまうような「プレ」ではだめで、
「ライアー」をもしっかり見据え、眼をしっかり見開いた上で
「未来が良いものだ」という確信を持つことが必要になる。

ネットワークの功罪もさまざまに論じられ、
参加者の意識の低さゆえに、実際に、さまざまな「罪」が跋扈しているところがある。
ネットの世界も「囚人のジレンマ」に似た状況であるともいえるかもしれない。
そしてそこでは参加者すべてを信じるということにはなりにくい。
参加者の意識の合計がその場を紡いで織り上げているからだ。

しかしそこでも「未来は明るいはずである」という信念を持つことは重要で
そのためにこそ、人を信じるまえに、自分を信じるために、
みずからの思考、感情、意志をしっかりと統御する訓練が必要となる。

シュタイナーは、高次の諸世界への道を歩もうとするときに特に必要なことは
魂が思考と意志と感情を支配することである、という。
つまり、思考の統御、意志の統御、感情の統御、世界理解に対する積極性、
そして新しい体験を公平に受け取ることのできる態度である。

「高次の諸世界への道」ということは、未来への道ということである。
秘儀参入するということは、未来の人類のすべてが体験できるであろうことを
先んじて体験可能にするということなのだから。