風のトポスノート622

 

あわいと面白


2007.4.28

 

    周知のように、「おのずから」という言葉は、古語では、自然の成り行き
   のままで、当然に、という現代語と同じ使い方と同時に、一方で、万一・偶
   然に、という意味でも使われていた。それは、人間の側からすれば万一・偶
   然と思われる事態も、より高い次元である宇宙的地平から見れば当然の成り
   行きと受けとめられるという考え方を示すものであるが、同時にそれは、
   「おのずから」の出来事は、「みずから」の営みには如何ともしがたい働き
   として働いているという受け止め方を示すものでもあるだろう。「おのずか
   ら」ということのもつそうした他性の緊張を忘れ、それを「みずから」に安
   易に解消しようとしたところに、これまで見てきたような悪しき意味での本
   覚思想が生じてくるのである。
    柄谷行人は、日本的「自然(おのずから)」発想に対する最もきびしい批
   判者のひとりであるが、その主たる批判は、この「自然」の、ナルシズムや
   共同体に閉じられやすい同一性・対称性に対する批判である。
    ーー日本的「自然(おのずから)」の対立概念は他者ということであり、
   そこには決定的に他者ということが欠けている、と。それは、<他>性とい
   うことをどう捉えるかということも含めて、日本的「自然(おのずから)」、
   とりわけその「本覚思想的風土」においては繰り返し問い返されるべき重要
   な課題ではあるが、ただ以上の行論から言いうることは、その「自然」にこ
   そ、ある決定的な他性の契機があるということ、こちら側には如何ともしが
   たい向こう側の働きとして、親鸞の思想でいえば絶対他力、絶対他の働きと
   してありつつその働きに司られているという、ある張りつめた緊迫の視点が
   そこにはあり、いくつかのすぐれた思想や文芸においてはそうした視点こそ
   がきびしく問われていたということである。
    そうした「自然(おのずから)」においては、他人もまた決して同一・連
   続・対称のそれではなく、おのおのの「みずから」はおのおのの「みずから」
   として受けとめられてくる。そこでは安易に閉塞した共同体に閉じこもるこ
   ともまたナルシスティックになることもできないのである。
    むろん、問題はその先に、そうした自然の他性(「おのずから」)が、な
   お同時に自己の自己性(「みずから」)に「相即」するということにあるの
   であるが、それは、自然を自己と二元論的に対立する他者と措定することで
   もなければ、一元論的に自己と同一化することでもない。問題はまさにその
   「あわい」にあるのであり、その「あわい」をどう思想化しロゴス化しうる
   かということである。
   (竹内整一『「おのずから」と「みずから」/日本思想の基層』
    春秋社 2004.2.1発行/P.25-27)

竹内整一の新刊、『「はかなさ」と日本人/「無常」の日本精神史』(平凡社新書)、
NHKラジオテキスト『<かなしみ>と日本人』、そして
上記引用の『「おのずから」と「みずから」/日本思想の基層』をあわせ、
あるいみ、三部作とでも呼べるように思える。

「はかなさ」「無常」「かなしみ」「おのずからとみずから」、
どれも日本に生まれ育った人にとって無縁のテーマではありえないだろう。
著者は、いわば「日本思想の基層」にあるであろうそうしたテーマのもつ
諸問題を的確にとらえながら、それらの「あわい」を示唆しようとしている。

そうした「あわい」は、
このトポスで常にぼくが基本姿勢としている
「中」や「遊戯」というものと非常に近しいところにあるようにも思える。

「おのずから」と「みずから」の「あわい」。

「おのずから」に埋没してしまう、無自覚な肯定のもつ陥穽。
そこにはともすれば「他者」の可能性が捨象されてしまう。
「みずから」のないところには「他者」も存在できない。
「他者」の存在しない「共同体」は推してしるべし。

また、「みずから」に埋没してしまう、自我力のもつ陥穽。
そこには、「私」故に「他者」の可能性を持ち得るが、
その「他者」は、「私」の対立する「他者」となりがちである。
主体性はあるが、その主体ゆえのバトルへの道が広がってしまう。

そうした「おのずから」と「みずから」が、
相即されることで可能になる「あわい」。

「夢」と「現」のあわい。

この世を夢と見、そのはかなさとかなしみゆえに
その外へと向かおうとする。
また、この世は夢、それ故にこそ
その夢の中へと向かおうとする。

しかし、夢を夢と見据えながら、
夢の外へではなく、また夢の内へでもなく、
その「あわい」そのものを生きる、生きようとすることで
可能になるなにものかがありはしないか。

「おのずから」と「みずから」の矛盾を超えて
豊かなかたちで統合、相即し得る「中」。
「夢」と「現」の悲しい矛盾を超えて、
豊かなかたちで統合、相即し得る「中」。

それらの「中」という動態は、
それそのものが「遊戯」でなくてはならないだろう。
その遊戯のなかには、無常も、はかなさも、
おのずからも、みずからも、そうしたすべてが、
それそのものにおいて、生きて働いていなければならない。

生きて働いているということは、
悲しみが悲しみでなくなるということもなく、
はかなさがはかなくならなくなるということもなく、
無常なるものが無常なるものでなくなることもなく、
それらそのものがそれらそのものとして働きながら、
彼岸と此岸、夢と現のなかで、
それらそのものとして現れながら、
しかもそれらに埋もれることなく、
「面白」として、光のなかにあらしめることである。

世阿弥は、『拾玉得花』という芸能論のなかで、こう述べている。

   抑(そもそも)、花とは、咲くによりて面白く、散るによりてめづらしき也。
   有人(あるひと)問云(とうていわく)、「如何(いかなるか)無常心」。
   答(こたう)、「飛花落葉」。又問、「如何常住不滅」。答、「飛花落葉」
   云々。面白(おもしろき)と見る即心に定意なし。

ここでいう「面白」は、現代のような「面白い」よりも
はるかに射程が広いものであることは理解しておく必要があるが、
そのように、あらゆる事象を「面白」ととらえることで
ひらかれてくる景色があるのではないか。

その「面白」は、能の起源にもかかわる言葉のようで、
天照大神が天の岩戸にこもって天下が常闇になったとき、
「太神(おおかみ)の御心をとらんとて」奏した神楽の遊びが
「申楽のはじめ」で、その神楽によって岩戸を開いたとき、
諸神の面が、「ことごとくあざやかに見え初めしを以て、
「面白」と名付け初められし也」、なのだという。

この神秘学遊戯団の「遊戯」も、
そのように「面白」きものでありたいと思っている。