風のトポスノート621

 

自由・無調・調性


2007.4.21

 

   バーンスタインはアイヴズの<答えのない質問>を好み、このタイトル
  のもとに1973年のハーヴァード大学のチャールズ・エリオット・ノー
  トン詩学講座で6回の講演を行った。この作品では、ソロ・トランペット
  が非調性的なフレーズを問い掛けるように演奏し、これに対し木管グルー
  プも同じような曖昧な応答をする。しかし、その背後では弦楽合奏が一貫
  して続くようにト長調の3和音を響かせている。バーンスタインは、この
  弦楽合奏を調性の永遠性の象徴と見ようとした。実際、バーンスタインは、
  現代音楽を好んで指揮したが、いわゆる無調性の音楽にはあまり関心を払
  わなかった。作曲においてはもっと徹底している。彼の作品で無調を組織
  的に使った一番顕著な例は、このCDの交響曲第3番<カディッシュ>で
  あろう。しかしバーンスタインは言っている。「12音音楽で示された苦
  悩は調性と全音階に屈服してしまう。最後に勝利を得るのは調性なのだ」
  と。
  (佐渡裕指揮・バーンスタインの交響曲第3番<カディッシュ>
   フランス放送合唱団とフランス放送フィルハーモニー管弦楽団
   WPCS6600 解説(藤田由之)より)

ちょうど武満徹の「そして、それが風であることを知った/海へ/雨の樹他」
(NAXOS 8.555859J)を聴いていて、その帯のところに
「たいていの音楽愛好家が普通は嫌う、無調の音楽なのに
美しいマジカルなタケミツ・サウンド」とある。
その武満徹も晩年には、調性のほうに近づいていたようで、
評判があまりよくなかったらしい。
こんな話もある。

   岩城 一度、ちょっと「いくらなんでも、この頃きれい過ぎるんじゃ
   ない」と言ったことがあって、向こうは相当響いたらしいけど、「ね
   え、次はまた前衛に戻るからね」なんて、いちいちぼくに言うんです。
   でも、その次、またきれいになっちゃうんですね。「今度は、アレグ
   ロを書くからね」とか「ティンパニーを一発入れたからね」とかいっ
   ても、テンポ120なんて書いてあっても、結局は80ぐらいになっ
   ちゃう。
  (『武満徹を語る15の証言』小学館/2007.4.2.発行
   「第7章 指揮者・岩城宏之さんに聞く」より)

ぼくがいわゆる「無調性」の音楽を
無調性の音楽だとしてはじめて耳にしたのはすでに高校生の頃だったが、
特に違和感を感じることもなく、むしろどこか晴れ晴れとした自由を感じたく らいだった。
音楽をとくに勉強するような経験もなかったぼくには、
おそらく調性VS無調というような概念がなかったのもあるだろう。
単なる無知だった、つまり調性ということがよくわかっていない、
というのも多分にあったのだろうけれど、
無知ゆえのこわいもの知らずの利点もあったのかもしれない。
武満徹の音楽にしても、無調であるとして聴いたこともないような気がする。

最初の引用にあるバーンスタインの言葉から思ったのは、
最初に調性という枠があってそこにしばられるのではなく、
無調というか、調性をもふくむ大きな音の海のなかで、
おのずと立ち上ってくる調性というのが
調性のもつほんらいの力を感じさせてくれるのではないかということだった。

自由がこわいから最初からそれを求めないで
ある枠のなかで外から与えられたものにもとづいて生きようとするか、
あえて自由において悪をも取り込みながら
生を常に生成されていく織物にしていくか。

おそらく、調性は、最初から与えられるだけであるならば、
たんなる「教え」にすぎなくなってしまうのだろう。
それは、自由において発見!されなければならないのではないか。

なんだか、あたりまえのことだけを書いているようにも思うのだけれど、
最近の日本のさまざまな状況を見ていても、
指針を失って暴走しているような状況に対して、
たとえば最初からある「日本」なるものを前提に
(「美しい日本」とか「美しい日本語」とかもそう)発想するような
それを生成させることであらためて発見!するようなプロセスを破棄するような
怠惰な姿勢のほうが大勢を占めてもきているような気がしていて、
最初からある調性(とされているもの)と生成されてくる無調の違いが
見えなくなってきているような気もするのであえて書いてみることにした。

自由はある種、生成されてくる調性を獲得しようとする運動でもあるが、
それはまさに獲得されなければ、最初からあるものではないわけで、
自由をおそれるがゆえにそれを遠ざけることで
最初から答えのように手に入れようとする調性とは、似て非なるものだろう。
問題は、その違いがわからないところにあるように思える。
「考える」ということを理解しない人にも同様な錯誤がおそらくはあるのだろう。