風のトポスノート620

 

複製技術の時代の極北におけるポエジーの崩壊


2007.4.4.

 

ベンヤミンの有名な論考『複製技術の時代における芸術作品』がある、
芸術作品が複製されることによって、作品から「アウラ」が消え、
礼拝的価値が消え展示的価値が重要になり、
さらに芸術に対する大衆の関係が変化していく、というもの。
この『複製技術の・・・』は、30年ほど前、始めて読み、
その頃もその後も何度か読み返し、そのつど、刺激を受けたものだが、
今回あらためて久しぶりに読み返してみて、
その内容の新しさにあらためて驚かされてしまった。
細かい部分を除けば、現代読み返される価値のある古典だともいえるように思う。

さて、ベンヤミンは、次のように書く。

   芸術がそのもっとも困難かつ重大な課題に立ち向かうのは、芸術が大衆を動
   員できる場所においてである。目下のところ、その場所は映画のなかである。
   芸術作品に対する散漫な姿勢は、知覚の深刻な変化の兆候として、芸術のあ
   らゆる分野においていよいよ顕著に認められるようになったが、ほかならぬ
   映画こそ、その本来の実験機関なのである。
   (ヴァルター・ベンヤミン著作集2 晶文社1970.8.31.発行/P43-44)

当時、芸術におけるもっとも大きな知覚形式の変化を招来したのは、
写真を超えて、映画がもっとも顕著なものだったのである。

この『複製技術の時代における芸術作品』が発表されたのは1936年のこと。
そこには、ファシズムと複製技術時代の芸術との危険な関係さえすでに描かれている。
複製技術の時代は、芸術の根拠を政治に変えて、大衆を芸術へ呼び込むことで、
「参加」の概念を根本から変えてしまうことになったのである。

ベンヤミンは、この論考の最後にこう記している。

   「芸術に栄えあれ、よし世界のほろぶとも」とファシズムはいう。ファシズ
   ムは、マリネッティが告白しているように、技術によって変化した人間の知
   覚を満足させるために、戦争に期待をかけているのだ。これは、あきらかに
   「芸術のための芸術の完成」である。かつてホメロスにおいてオリンポスの
   神々のみせものであった人間は、いま人間自身のためのみせものになった。
   人間の自己疎外はその極点に達し、人間自身の破壊を最高級の美的享楽とし
   て味わうまでになったのである。これが、ファシズムのひろめる政治の耽美
   主義の実体である。共産主義は、これに対して、芸術の政治主義をもってこ
   たえるだろう。
   (同上/P46-4)

ベンヤミンの「「芸術に栄えあれ、よし世界のほろぶとも」とファシズムはいう。」
というのがある意味、予言であったといえるのかもしれない。
ベンヤミンは、アウシュビッツの殺戮の実際を知ってはいなかっただろうが、
アドルノが、「アウシュビッツの後で、叙事詩をつくることは野蛮である」
といったように、強制収容所では、
教養人でもあったナチス親衛隊の将校達たちが
強制収容所でバッハやブラームス、モーツアルトなどを聞いていたわけである。
「機械的、組織的大量殺人」を傍らでこなしながら。

そして、『複製技術の時代』の現在・・・。

ここからの少し長めの引用になる。
「2007年アドルノ再考」(en-taxi spring 2007)より
福田和也『アイポッドの後で、叙情詩を作ることは野蛮である』から。
「アウシュビッツ」がここでは「アイポッド」に置き換えられている。

    アウシュビッツは、もはや説得力を失った。
    というような文章を書くと、歴史修正主義者のデマゴーグのように受け取
   られるかもしれないが、そうではない。
   (・・・)
   「アウシュビッツの後で、叙事詩をつくることは野蛮である」
    というパッセージは、作詞者テオドール・アドルノの意図を超えた、ヒッ
   ト・チューンになった。二十世紀の表現全般を既定した、ドグマとはいわな
   いまでも、プロトコールではあった。ならないわけがなかった。
    (・・・)
    強制収容所に対する、特定の民族や思想の持ち主の、機械的包括的殲滅と
   いう事態にたいして、芸術はいかなる敬虔さを捧げても捧げたりない、とい
   うことをアドルノは語ったのではない。
    そのようなことは、思惟は、世俗の世界、つまり政治や報道、教育におい
   ては充分に周知されていたし、周知されるべきであった。
    (・・・)
    アドルノは、芸術そのものを断罪する。
    表現は、ロマンスは、エレガントであろうと、マッチョーゾであろうと、
   本質的に罪深いものであり、冒涜であり、見るべき真実から目をそらし、忘
   れ、専横や利己主義を正当化するための欺瞞にすぎない、と。(…)
    機械的、組織的大量殺人にかかわった、ナチス親衛隊の将校達は、けして
   無教養な無頼漢ではなく、しばしば高潔な教養人であった。彼らはバッハを
   愛し、カントを読み、ウェルギリウスの詩の一部を暗唱することができた。
   彼らのうちのあるものは、収容所から音楽家たちを選抜し、晩餐にバッハや
   ブラームスを演奏させていたのである。
    (・・・)
    今や、ホロコーストの恐怖は、その野蛮さは、さほどブリリアントではな
   くなってしまった。
    アピールしなくなってしまった。
    それは、ただインターネットのマニア、さまざまなガジェットとソフトウ
   ェアに埋もれた人物が野蛮人であり、セルラーフォンすら持たない人のほう
   こそが理性と文明の側に属するというような区分が、常識的かつ凡庸なもの
   になったからではない。
    たしかに、その点において、高度情報社会そのもの野蛮さの容赦ない露呈
   が、アドルノの提起の優位を掘り崩してしまったことは否めない。けれども
   っとも厄介なことは、高度情報技術の地球的普及が、恐怖の様態を変えてし
   まったことである。(…)
    極論すれば一人のテロリストが、世界システムを破壊し得る、その可能性
   が開示されたことによって全地球人類が潜在的なテロルの容疑者になったの
   である。誰もが、容疑者であり、被害者である世界に私たちは住んでいる。
    (・・・)
    すべての音楽が、アイポッド的機器とそのネットワークから提供される時、
   もう「ネオンサインとジャズ」、「低劣な流行小歌」と「ほんとうに悲しい
   音楽」の対比、つまり聞かされるものと、耳を澄ますことの軋轢は存在しな
   い。聞きたい音楽をどこでも、どのようにでも聞ける時、音楽はその空間と
   ともに内面も失ったのである。外側がないのに、容赦なくとびこんでくる現
   実の騒擾がないときに、どうして心の響きに耳を傾けることができるだろう。
   外界の音をすべてとざすハイファイなイヤホンは、自らの心と精神を殺して
   くれる優しい電気椅子だ。
    音楽が、すべて情報になったということ、ネットワークを通して取引され
   る抽象的記号となったということは、音楽がすべての物神性を、フェティシ
   ズム(…)を失ったということではない。
    複製の魔術が消えたということなのだ。(…)
    複製が本物を保証しないからこそ、粗末な幻影しか用意してくれないから
   こそ、自分だけの真実のシンフォニーを、つまりは精神と呼ぶことのできる
   ものを聞き、走らせることができた。すべてが複製可能であるということは、
   どこにも本物はないということでもあるし、すべてが本物であるということ
   でもある。その退屈さは、本物でない私たちにとって、あまりにもの悲しい
   唯一の現実だ。
   (福田和也『アイポッドの後で、叙情詩を作ることは野蛮である』
    en-taxi spring 2007 「2007年アドルノ再考」より)

「アイポッド的機器とそのネットワーク」における音楽は、
いったい何を変えてしまうことになったのだろう。
「聞きたい音楽をどこでも、どのようにでも聞ける」ということ。
そして、「音楽が、すべて情報になった」ということ。
そのことと、
「誰もが、容疑者であり、被害者である世界に私たちは住んでいる」
ということとのある種の同一性に思い至ったとき、
「複製技術時代」の現在がおぼろげに見えてきはしないだろうか。

ハイデッガーは「アウシュビッツは、ブロイラー工場と同じだ」
という評判のきわめて悪い放言をしたというが、
ある意味で、私たちの浸っている消費生活の日常は、
そういう暴力的なあり方を疑いもなく前提としているようなところがある。
「誰もが、容疑者であり、被害者である世界に私たちは住んでいる」
ということを、あらゆるレベルで考えてみればそれが痛切にわかるはずである。
だれもが、「自分の指をしゃぶって」自分だけが清らかである、
などといえるような社会には住んでいない。

そして私たちの享受する、時間も空間も選ばない複製情報の音楽は、
私たち自身の外面と内面をなしくずしに崩壊させ、
私たち自身の存在の赤裸々さを崩壊させてしまうことにもつながるのではないか。

故に、そこに真性の精神科学がますます必要となってきているということでもある。
そうでなければ、「叙情詩」ならぬ、「ポエジー」が不可能になってしまう。
「ポエジー」なき人間は、アーリマンの魔術によって、
すでに廃墟となってしまうことを余儀なくされる。
「アイポッド的機器とそのネットワーク」における音楽ゆえにではおそらくなく、
(しかし、道具や技術はひとを容易に奴隷にしてしまうのはおきまりの現実)
今、ここで、外界に、そして自らの精神に耳を傾けることをスポイルするために
それを使ってしまう愚かさを選択してしまうがゆえにである。
そのとき、複製可能にされてしまうのは、ほかならぬ、自分自身なのだから。
複製可能にされた人間からは、すでに「ポエジー」の可能性は剥奪されている のである。