大峯 問いにあたいする問いというものは、にっちもさっちも行かないとい
うところから初めて出てくる。それがほんとうの問いです。(…)
池田 ということは、逆に、あらゆる問いは不可能な問いなんですよ。真実
の問いは。
大峯 答えがあるかどうかわからない問いです。
池田 答えはないです、ほんものの問いには。そのことがわかっている。
大峯 答えが最初からあるとわかっているような問いはほんとうの問いじゃ
ない。
(・・・)
池田 存在が存在すること自体、それこそ謎ですから、完全に自力を超えて
いますから、そういう感じ方は、ほんとうは私に限らずすべての人は生きて
いる不思議として感じるはずなんですけれど。だけど、いきなり人は考え始
めたり信じたりということはしないわけです。ほんとんどは、人生の中でな
にかの危機に出会わないと人は考え始めないんです。だから実存的危機を知
らない人に語りかけることは不可能ですね。あるいは逆に、絶対的危機にな
ってしまっていきなりなにかにすがろうとすると、変な宗教になってしまう
ことがほとんどです。だから普段から考えておきましょう。こんなことは言
ってもしょうがないことですけれど。
(池田晶子・大峯顯『君自身に還れ/知と信を巡る対話』
本願寺出版社 2007.3.10発行/P.209-216)
問うことや考えるということのわからない人に、
問うことや考えることについて語ることはできない。
できないとは思ってもみないのだから。
逆に、問うことや考えるということを切に実感している人には、
それをあえて語る必要はない。
それは否応ないものなのだから。
問うことや考えることは、いわば「発心」のようなもので、
そうすることさえできれば、あとは逆戻りすることのほうがむずかしくなる。
人生においてさまざまな問題が起こるのは、
それを問い、考えさせるためであるともいえるかもしれない。
そして、自分以外に問うことも考えることも代わりにしてくれる人はなく
しかもその答えを探そうとしても、
テストの答えのような正解をそこに見出すことはできないがゆえに、
そこから逃避しようともするだろうし、その逃避の手段として、
別のさまざまなものをすり替えて持ち出そうともすることにもなるのだろう。
しかし、問題は人を追いかけ続け已むことがない。
危機ゆえになにかにすがろうとすると
それは姿はさまざまであるとしても「変な宗教」にもなり、
また自分でじっくりとりくめないために
同種のひとたちで集まったとしても
集団は多くの場合、人が多いほどに、
考えることができない場が増産されていくばかりになる。
人はひとりのときにこそ、考えることができるのであり、
また愛することができるというのが基本になる。
「死」について考えるにしても、
自分が身近なひとが「死」に直面してから考えるのでは
実際のところ恐ろしく遅いのだけれど、
実際には、そういうときにならないと考え始めないし、
混乱のままに、考えることなどほとんどできないのが実際のところだろう。
そして、「死」について直面するためには、
「存在が存在すること自体」の「謎」のまえで
じっくりと立ち止まり続ける以外に方法はないにもかかわらず、
実際に直面しているのは「死」でさえなく、
さまざまな恐怖や憶測など以外のものではなくなってしまうのだ。
そして「死」ではなく「墓」のことしか考えない人のなんと多いことか。
それは、刺身に添えられた造花の花を刺身だと思い込んでいるようなものではないか。 |