風のトポスノート618

 

考え抜くことと決着


2007.4.2.

 

   大峯 (…)ほんとうのお坊さんは、ものをほんとうに考える人なんですよ。
   池田 哲学者ですね。
   大峯 そう、哲学者なんだ。
   池田 現代人は、そうは思っていませんね。お坊さんが哲学者だなんて。実
   際にそんな人は滅多にいないし。
   大峯 だから阿弥陀様も法蔵菩薩のとき、最初に何をしたかというと、考え
   たんですね。どうしたら十方の衆生を救えるかを考えに考えたわけです。五
   劫の思惟、それから永劫の修行です。五劫という無限の時間の思惟が仏さま
   にも必要だったんです。可能なことを可能にするなら簡単だけど、不可能な
   ことを可能にする方法、仏に成れっこない衆生を仏にする方法を考えつくに
   は、そりゃ時間は要りますよ。
   池田 宇宙大の思惟ですね。でもそこから「よっこいしょ」と身を起こした
   ことがやっぱりすごいですよ。ふつうは考えっぱなしになると思うんですけ
   れど。
   大峯 ひたすら考え抜いて、それでついに決着が出たんですね。
   池田 決着は出たのでしょうか。
   大峯 出たんです。だから阿弥陀仏になったんだ。
   (・・・)
   大峯 結局宇宙が言っているんですね。宗教とは宇宙の言っている言葉、宇
   宙言語を人間が聞くことですよね。
   池田 それが決着になるんですね。
   大峯 そりゃそうですよ、宇宙が言っているんですから。
   池田 私はほんとうのこと知りたいっていう気持ちがまだまだ強いでしすか
   ら、そこのところは決着つきません。そういうときに禅の言葉はうまいと思
   うのは、「仏に逢うては仏を殺せ」ということ。
   (池田晶子・大峯顯『君自身に還れ/知と信を巡る対話』
    本願寺出版社 2007.3.10発行/P.155-161)

自分は考え抜いているだろうか。
考えるということがわかない人は、
もちろん考え抜くということがわからない。
そして、考えないままに、結果/答えを出すための決着をすぐにつけようとする。
もう十分考えた、頭で考えるだけではいけない、実践が必要だ、
とばかりに「実践」に走る。
もちろん、そういう人こそが「頭」で考えているということにほかならないことは、
考えるということの大切さを理解する人には疑いようもない。

阿弥陀様が無限の時間の思惟が必要だというのだから、
私たち凡夫が、ごくごく短い間に、考えの決着が得られようはずもない。
とはいえ、もちろん、決着を得ないのを目的にしてはならないだろうし、
ただただ「無限の時間の思惟」だけを行なうわけにはいかない。

しかし、少なくとも、どれほど自分は「待ち得るか」という視点は重要だろう。
つまり、待てないから決着をつけるというのは、
最初から負けを選ぶ剣の試合のようなものだ。
最初に動いたほうが負けになるというのは、剣術試合の定石でもある。

重要なのは、「訪れを待つ」ということだろうかとも思う。
必要なことは、必要なときに、訪れるということ。
それは、私が行くのでもなく、また消極的に受け身になるというのでもない。
「訪れ」は、同時である。

待てない人には「仏」が、もちろん偽の仏が訪れてくるだろう。
その訪れは、真の訪れではなく、執着という名の偽の訪れである。
そして、そのとき、真に考え抜くことを決意した人であれば、
「仏に逢うては仏を殺せ」と、その偽物をだれがつくったのかに悟るだろう。

シュタイナーにおける「キリスト」もひとつの「決着」である。
そのことがわからなければ、シュタイナーの精神科学は理解し得ないのではないか。
しかしその「決着」を「考え抜くこと」なしで「うのみ」にすることはできな いだろう。

とはいえ、「シュタイナーをうのみにしないように」ということが
シュタイナー理解の最初に来てしまうというのは、
「殺す」べき偽物の「仏」にさえ出会えていないということでしかない。
「うのみ」にするためには、少なくともどれほどの「考え抜くこと」が必要に なるだろう。
「考え抜く」ことの結果、「シュタイナーをうのみにしない」ということと
考えることのできないままに、「シュタイナーをうのみにしない」ということとは
比較するまでもない。