風のトポスノート617

 

知りたい!


2007.4.2.

 

   大峯 (…)幸せを生き甲斐、幸せを人生の目的にしなかった人が、顧みる
   と「ああ、自分は幸せな一生だったな」というふうに思うんじゃないでしょ
   うか。ぼくなんかは若い頃から、ある意味ではストイシズムでしたね。幸せ
   になろうなんて思ったことは一度もない。
   池田 私もそうです。究極的にどうなっているかを知りたい。最後に残るの
   は知りたいという願望。渇望と言ってもいいです。私の場合はそれですね。
   大峯 そう、知の欲求です。
   池田 知りたい。先生の本には「生きたい」っていうのが人生の最終的な欲
   望と書いてありましたけど、私は「知りたい」ですね。その「生きたい」の
   「生きる」がなにか、やっぱり「知りたい」わけですから。
   大峯 やっぱり、ほんとうのことを知らないと、ほんとうに生きたことにな
   らないものね。
   池田 そうなんです。そうすると知りたいということがどこまでもどこまで
   も先に行ってしまう。
   大峯 だから、生理的欲求が活発であるから生きているとは必ずしも言えな
   いよね。やっぱりそれは空しい。そうじゃなくて、やっぱりほんとうのもの
   ですよ。ほんとうのものに出会ったら人間は満足する。
   池田 そうですね。
   大峯 人間はいつ満足するかというと、嘘でないものに出会ったら満足する
   んです。その人は幸せだね。やっぱりほんとうのものに出会った人が幸せじ
   ゃないかな。
   池田 逆から言えば、そのほんとうとは何か考え続けていくことで満たされ
   るのじゃないかな。
   (池田晶子・大峯顯『君自身に還れ/知と信を巡る対話』
    本願寺出版社 2007.3.10発行/P.148-149)

知りたい!ということは、答えがほしいということではない。
それは常に「ほんとう」に向かって問い続けるプロセスである。
そして、「幸せ」を「答え」にしようとするような姿勢は、
決して人を幸せにすることはないだろう。

何も自分で考えようとしたことのない人は、
「知る」ということを「頭で考える」というふうに誤解してしまうのが常だが、
「私」も「考える」ことも「頭」に属しているわけではない。

知りたい!と渇望するかしないか。
それで人の「生きる」仕方そのものが変わってくる。
知りたい!ということのわからない人は、
「答え」としての死んだ「知識」と「知」の違いさえわからない。
考えることのできない言い訳に、「わかりやすいことばで」とか、
「ハートで」とかいったりもする。
「わかりやすいことば」や「ハート」が
どれほどむずかしいのかということがわからないで。

知りたい!と渇望するということは、
「ハート」で思考するということでもあり、
また「生きる!」ということそのものでもある。

そして、この知りたい!ということを
いずれは断念しなければならないような
神秘学的状況に立ち至らねばならなくもなるのだが、
その「断念」ということが意味をもつのは、
知りたい!という渇望があるからである。
その渇望がないところでは、「断念」は成立しない。
断念しなければならないような知は最初からそこにはないのだから。

その「知りたい!」を依存的に満たそうとする人もいる。
だれかに教えてもらおう、
だれかといっしょに考えていればわかるのではないか、
そんなことを考えつくのはわかりやすいが、
それは「知りたい!」ではなく、「答えがほしい」病でしかない。
その場合、どんなに人がたくさんいても、いや人がたくさんいるほど、
「対話」は成立することはないだろう。

「知りたい!」というプロセスを失わない人が集ったとき、
そしてみずからの内なる「対話」が成立し得たときにこそ、
はじめて「対話」は成立する。
その「対話」はもちろん「生きた思考」そのものでもあり得る。
ある意味で、「教育」はその「対話」を可能にする
「自己教育」のためのサポートであるといえるかもしれない。