この世界の人間には、それぞれの用途がある。誰もが何かしらの 
             専用人間なのだ。ところが、ここに用途のない人間がいた。その 
             無用途人間に、伝達用人間が用途を伝えにくる。しかし、伝達用 
             人間は、伝えてしまえば用途がなくなる。またここに、無用途人 
             間が誕生する。 
             (・・・) 
             「あー、しなきゃいけないことがなくなってしまった」 
             (・・・) 
             「しなきゃいけないことをください!」 
           (『小林賢太郎戯曲集 home FLAT news』 幻冬舎より 
              「無用途人間 」 2002.2.10発行P.010) 
        なにかをしなければならない、という思いだけがあって、 
          なにかをしなければならないのかを自分では決められない、 
          というのがこの「無用途人間」というコントの 
          世界観の背景のようなものになっている。 
        「用途」というのはいったいなんだろう。 
          自分はなにをしなければならないのだろう。 
          その「用途」はだれがきめたものなのだろうか。 
          ひょっとして自分がそれを決めていると思っていても、 
          どこかで刷り込まれてしまっているのではないか。 
        それがあれば生き生きと生きていけるという「生きがい」がある。 
          いわゆる「ボランティア」というのもそう。 
          そうしたものもある意味では「用途」である。 
          しかしそれらがないとしたら 
          その人は「無用途人間」になるのかどうかを問ってみる必要があるのかもしれない。 
          それらさまざまの「用途」をじぶんから 
          はぎとってしまった後に何が残るのかということ。 
        「用途人間」であるか 「無用途人間」であるかは 
          おそらくたいした違いはないのだろう。 
          注意深く見ておかなければならないのは、 
          「無用途人間」であることを楽しむことができるか 
          それに耐えられないでむりやり「用途」を見つけて 
          何かをしてしまうかということなのではないか。 
        五木寛之が「林住期」という本を出している。 
          古代インドでは生涯を25年ごとに四つの時期、 
          つまり「学生期(がくしょうき)」、「家住期(かじゅうき)」、 
          「林住期(りんじゅうき)」、「遊行期(ゆぎょうき)」に分けて考えたという。 
          ある意味、「林住期」以降が、 
          積極的な意味での「無用途人間」になり得る時期であるといえるかもしれない。 
          もちろん、人をそのように時期で分けて考える必要もないだろう。 
          すべての時期を同時進行としてとらえることもできるのだから。 
      人はいつも積極的な「無用途人間」として生きることもできるのだろうから。  |