風のトポスノート615

 

自我と言語と知と沈黙と…


2007.3.25.

 

    そもそも<いま・ここ・わたし>とはなんだろうか。『白痴』のムイシュキン
   のいう「どうしても忘れられない一点」のようなあり方で、<わたし>は存在し
   ているといえるだろう。世界の透明な枠組みとして、自身の身体をも含めた「相
   対的価値」の世界に対峙する。だからこそ、この<わたし>は、世界に決して登
   場しない。突きとめようとすると、無限に後退していく。突きとめようとするの
   も、同じ<わたし>だからだ。
    <いま・ここ・わたし>が、そのようなものであれば、ウィトゲンシュタイン
   のいうように、世界は、そのまま<わたし>になるだろう(独我論=実在論)。
   もちろん、その<わたし>は、<わたし>にとって、いわばもっとも近い無限遠
   点のようなものだから、<無>いに等しい。このあり方自体が、ウィトゲンシュ
   タインのいう<奇蹟>かもしれない。そして、真の絶対的状態だとも、いえるだ
   ろう。ここでは、一切の言語化(相対化)が阻まれているからだ。
    すると言語は、このように世界に密着している<いま・ここ・わたし>が、世
   界から離れられるという錯覚をいだかせる装置だといえるだろう。言葉 によって、
   われわれは、絶対的状態から離脱した。しかもその状態が、<奇蹟>であること
   を確かめるために。だが、世界を<奇蹟>として見る経験は、当然のこ とながら、
   世界を<奇蹟>ではなく、べつのものに変質させる。
    そしてまた、そのような言語の存在そのものも、われわれは<奇蹟>としてと
   らえるだろう。世界という<奇蹟>のまっただなかにいながら、われわれは、そ
   の「世界という<奇蹟>」をしっかり自分の手にとろうとする。そしてそのため
   に、言語という、べつの<奇蹟>を使わざるをえない。その拙劣さ、あるいは、
   袋小路…。
   (中村昇『小林秀雄とウィトゲンシュタイン』春風社/2007.3.25.発行 P.180-182)

言葉を疑いなく信じている人の言葉よりも
言葉に絶望しているにもかかわらず
あえて言葉を使う人の言葉のほうが
たしかに伝わってくるものがありはしないだろうか。

沈黙のない言葉と
かぎりない沈黙のあとで
おずおずと語りはじめられる言葉。
それは同じ言葉ではありえないだろう。

知を盲信してしまう人にも
また知を得ないまま、知識ばかりではないという人にも
知はなにも語りかけてはこないだろう。
言葉を得るためには言葉に絶望しなければならないように
知を得るためには知に絶望するほどの知が必要である。
そしてその矛盾を生き続けなければならない。

たやすく信じる人の信よりも
信じ得ないがゆえに得られる信に
真実を感じることができないだろうか。

そのように、世界があるということを
疑いなく信じている人よりも
世界があるということに驚き
その奇蹟の前でたたずんでいる人をこそ
信頼し得るのではないか。

そして、わたしがいる、
いまここにわたしがいるということに
何の疑いもいだいていない人よりも、
わたしとはいったいなんだろうという問いのただなかで
いまここにいるということの不思議と奇蹟に
常に立ち戻れるひとの真実をぼくは共有したいと思う。

ともに語ることのできるひとのあいだには、
かぎりない沈黙があるだろう。
語り得ないことのまえで、人は沈黙しなければならないが
その語り得ないことを、ともに痛みとともに感じる人のあいだには
そこにたくさんの言葉が交わされるとしても
またただの笑みが交わされるだけであるとしても
世界をともに生きることを可能にする真実があると
わたしは信じている。