風のトポスノート614

 

関係性としての笑いを世界の外から見る訓練


2007.3.25.

 

   言葉がつくる笑いっていうのは、二人の人間がいたら二カ所の口から
   つくると思うんですけど、僕らのは、人間の間にある笑いなんですよ。
   要するに状況がつくる笑いです。それがもっと自由自在になれたらい
   いなって思ってますね。不動の気持ちって絶対ありますからね。そう
   いうことを隠しているひとはきと笑ってしまうと思います。だからカ
   ッコつけてるひとほど、ラーメンズの舞台っておもしろいって思える
   のかもしれませんね。(小林賢太郎/P.26)

   小林■■なぜ人間が笑うかという謎。(…)
   “笑い”って物理とか数学に近いものだと僕は思ってるんです。ラー
   メンズには誰にも見せられない、“取扱説明書”があるんですけど、
   それ一冊あれば、その都度シチュエーション、人格、笑いの種類、時
   間を選んでいけばあらゆるコントは書けてしまうんですよね。結局締
   切のある仕事をしているので、感性とか閃きでやっていると打ち止め
   になると思うんですよ。言うなれば、ラーメンズは工場なんですね。
   そして同時に、“笑い”は一つの学問としても完全に成立すると思う
   んです。(小林賢太郎×菊地成孔/P.112)

   (『ラーメンズ つくるひと デコ』太田出版/2002.8.31発行 より)

生まれてから一度も笑ったことのない人の話、とかいう物語があったりもするように、
実際には、笑ったことのない人というのはまずいない。

シュタイナーは、「笑い」を、
自我がアストラル体を拡張している状態であるとしているが、
そのあり方はさまざまで、
たとえば、米朝と筒井康隆の対談(『対談 笑いの世界』朝日新聞社)などでも、
「笑いは何かという定義は?」と聞かれて、米朝は
「そら定義できまへんで(笑)。あるいは、二十も三十も答えがあるっていうか。」
というふうに答えていたりもするし、
筒井康隆は、「生理的には自我の崩壊だけど。
簡単に二元論にして、『楽器か武器か』という議論もできる。
…いろんな分類のしかたがある。ベルグソンの分類は変だけどね(笑い)」
というふうな感じで答えている。

「笑い」の世界は奥が深く、
それをどうとらえるかによって、さまざまな世界が開けてくるが、
同じ笑いといっても、エゴイスティックで下劣な笑いもあれば、
逆に、自我が高度な仕方でアストラル体を美しく輝かせもするような、
いってみれば、非常に質の高い笑いもある。

笑ったことのない人というのはまずいない、とはいっても、
「笑い」を好む人もいれば、そうでない人もいるだろうし、
どのような笑いを好むかというのは、ひとそれぞれであって、
ある意味、どのような笑いを好むかによって、
その人がどのような人であるかわかるところもあるといえるかもしれない。

また、非常に硬直した、「まじめ」であることを強要されるような状況では、
(そういえば、「笑いの大学」という映画などのことも思い出されるが)
「笑い」が禁止されるようなこともあったりもする。
「笑い」のもつ機能は、「人心」を大きく左右するということだろう。

そういう意味でも、「笑い」についてさまざまに考えてみることは、
自我とアストラル体について考察していくうえでも、
大変重要なことであるということができるように思っている。

さて、「ラーメンズ」というコンビがいる。
最初に興味をもったのは、MACのCMを見たときである。
「どうも、Macです。/こんにちは、パソコンです」という
MACとパソコン(つまり、ウィンドウズ)を比べるCMである。
http://www.apple.com/jp/getamac/
そのときは「ラーメンズ」というコンビのことはまったく知らなかったのけれど、
その後、例のごとくのシンクロで、
椎名林檎のDVD『百色眼鏡』に、ラーメンズの一人、
小林賢太郎が出演しているのを知って、それがラーメンズであることを知ることに。

そうなると、例のごとく、ぼくのちょっとした凝り性で、
ラーメンズについてDVDや書籍などを漁り始めることになる。
最初の引用は、ラーメンズの著書から、小林賢太郎の言葉である。

たしかに、ラーメンズの二人がつくりだす独特の笑いは、
「人間の間にある笑い」「状況がつくる笑い」であり、
見ていると、そのコントの作り方に、ある種の法則性が垣間見えたりもする。
そのコントは、小林賢太郎もいっているように、
ふつうの漫才などにあるような「ボケ」と「ツッコミ」のようなかたちではなく、
「二人ともバカ(ボケ)で、ツッコミがいないという状態」である。
そして、「非常識な世界観の中でも、常識的な言動をしているので、
まったくズレを感じることなく観られるようにしてある」。

ラーメンズ独特の笑いの世界を観ながら思うのは、
(実際に見てみないと説明しにくいところがあるのだけれど)
今私たちが行っている言動というのも、
ある世界観の中で自分では常識的な言動をしていると思っていても、
その世界観の外からの視点からすると、
ツッコミのいないボケの世界になっているのかもしれない、ということである。
そして、そのなかにいる私たちにとっては、それは笑いにはならないでいる。

しかし、自分の今いる世界(だと思っている世界)のことを
ある種、観客として観ることができるとするならば、
今の自分とその状況をけっこう笑って観ることもできるのではないだろうか。
そして、その笑いというのは、自分の今いる世界の関係性において、
さまざまなかたちで生み出されているということもできる。
わたしとあなたの関係性・・・。
ときに苦しく、ときに悲しく、ときに喜びに満ちている関係性。
そうすることができたとしたら、
たとえば、ひどくスクエアなかたちのまじめすぎる状況設定も、
けっこうな笑いに満ちたものとして想定することもできるようになる。
まじめにすればするほどに、笑わざるを得ないような、そういう状況。
そうした、いってみれば「関係性としての笑いを世界の外から見る訓練」というのは、
言葉をかえてみれば、意識魂的な反省意識の展開として
とらえることもできるように思う。
そうすることで、シュタイナーが自我がアストラル体を拡張している状態であ るとしている
「笑い」のかたちを制御することもまたできるのではないだろうか。
つまり、低次の感情に流されず、豊かな感情を確かに育てるということである。