手を繋いで居て 
             悲しみで一杯の情景を握り返して 
             この結び目で世界を護るのさ 
             (…) 
             殺めないでと 
             憎しみで一杯の光景を睨み返して 
             その塊を果敢に解くのさ 
             (…) 
             手を繋いで居て 
             喜びで一杯の球体を探り直して 
             この結び目が世界に溢れたら 
             ただ同じときに遇えた幸運を繋ぎたいだけ 
             この結び目で世界を護るのさ 
             未来を造るのさ 
             (椎名林檎『夢のあと』より) 
        *以下の内容は、上記の歌詞とは直接関係しないものの、 
          このテーマを考えるきっかけになったので挙げておいた次第。 
        自分と世界の結び目にはさまざまなかたちがある。 
          そしてその多くは、快・不快の感情の織りなす結び目である。 
          喜び、悲しみ、苦しみ・・・。 
          人は、快をたぐり寄せ、不快を遠ざけようとする。 
          つまり、快と不快の世界へとみずからを投げ込んでしまうのである。 
          快だけ、不快だけということはない。 
        そんななかでどうやって生きていけばいいのだろうか。 
          これまでその問いを何度くり返してきたことだろう。 
          ときには喜びに満たされながら、それを失うことをおそれ、 
          ときには苦しみに顔を歪めながら、早く去って欲しいと願い・・・。 
        調和すればいいのだろうか。 
          では、調和するにはどうすればいい。 
          調和しない要素を極力排除して安定を保つという方法がある。 
          世界は円満である。 
          円満でない要素はそこから排されるのだから。 
          その世界を守るための結び目を張り巡らせていれば、それで安心。 
        しかし、そこから排されたものはいったいどこに行けばいいのだろうか。 
          結ばれた結界から入れないものの行方は。 
        人は脱皮をくり返していかねばならないのではないか。 
          調和という小さな卵をときにみずからが壊すことで。 
          不快をあえて選び取ることで、結界の結び目をほどいて。 
          未来をつくるということがそこからはじまる。 
        卵を壊すことは、大きな恐れを伴う。 
          それまで小さいながらも安らいでいた世界を壊すのだから。 
          それはある意味で、「他者」の招来でもある。 
          それまでまったく自分の世界になかった「他者」を招き入れるのである。 
          レヴィナスのいう「他者」のような、とほうもないものを。 
        そこからは、苦闘が始まる。 
          結び目が解かれるたびにどれほどの苦痛が襲うことか。 
          しかしその苦痛は同時に、小さな結晶ゆえの退化からの解放でもある。 
          そしてその解放の際には、凝縮された感情のエネルギーが 
          爆発的に発されることにもなるだろう。 
          それまでほそぼそとしか発することのなかった魂の声が、 
          叫びとなってその稲光を炸裂させる。 
          その爆発によって、小さな卵を形成していた結び目が拡張し、 
          排されていたものが取り込まれ、あらたな卵を形成する。 
        そこには、それまで憎まざるをえなかったもの、 
          嫉妬せざるをえなかったもの、悲しみを避け得なかったもの、 
          問いをさけてきたもの、知ることをおそれていたもの、 
          そんなさまざまな「他者」が内へと向かい、 
          わたしの卵のなかでその変容した器官へと変容することになる。 
        新たな世界がそこに誕生する。 
      死と再生のように。  |