風のトポスノート612

 

クレイジー


2007.3.10.

 

    大野一雄の百年を振り返ると、この人はいつも時代の極北を歩いているように
   見える。日本が西洋の文化を積極的に摂取した明治の終わりに、函館という西洋
   文化を真っ先に取り入れた港町に生まれ、母親の弾くオルガンで歌った歌がアイ
   ルランド民謡の「庭の千草」、お袋の味はフランス料理、ホタテ貝のグラタン、
   コキーユなのだ。戦争の時代には、飢えとマラリヤで十五万の日本兵が犠牲とな
   ったニューギニアで、海でサメを捕り、河原にイモを植え、死線を越えた状況の
   中で食料調達に苦闘していた。六〇年代には、土方巽の過激な前衛芸術運動に挺
   身し、女学校の教員を務める身でありながら、ジャン・ジュネの『花のノートル
   ダム』の主人公、男娼ディヴィーヌをオレンジ色のネグリジェを着て踊るのだ。
   九〇歳を過ぎては、ひとりで立つことができない体力の衰えの中で、座って手だ
   けで踊りを続けてきた。大野一雄はクレイジーなのである。
   (…)
    二〇〇六年十月二十七日、大野一雄は遂に百歳になった。長く生きて人を感動
   させる。この最も祝福される舞踏家の奇跡は、世界の舞踏史に長く記憶されるだ
   ろう。
   (『大野一雄 百年の舞踏』大野一雄舞踏研究所編
    フィルムアート社 2007.2.5.発行)

クレイジーでありたいと思う。
まちがっても、世慣れたひとにだけはならないでおきたい。
大野一雄の奇跡とクレイジーは、希望を与えてくれる。
舞踏家・大野一雄の活動について詳しくは知らないが、
徹底してクレイジーであり続けることはやさしいことではない。
世の中は、人に持続的にクレイジーであることを許しはしないのだから。

孔子は、中庸の人の次には、狂狷の人がいいという。
「狂者は進みて取り、狷者は為さざる所有るなり」というのである。
つまり、狂者は理想が高く、狷者は節操がかたい。
平凡な生き方を嫌い、自由な生き方を好む。

しかし、逆説的だが、クレイジーであるためには、
クレイジーでないことが可能でなければならないのではないか。
いやおうなくクレイジーであることは、たんなる馬鹿である。
あえてクレイジーを選ぶこと。
その自由にむかって進むこと。

中庸についてもおなじことがいえるだろう。
たんにバランス感覚がよくてほどほどであることを中庸とはいわない。
そこには、かぎりないクレイジーが内包されていなければならない。
クレイジーの極北として中庸があるということ。
だから、孔子は、中庸の人の次には、狂狷の人がいいといった。
つまり、狂狷の人を超えるものこそが中庸でなければならないわけである。

さて、百歳にあと数年というところで昨年亡くなった白川静さんによれば、
「狂」というのは、「王座の前に置かれた鉞にふれて異常な力が与えられるように、
何らかの霊の力によって異常な力を得て「くるう」こと」だという。

「何らかの霊の力」は古代においては、ある種呪術的なものでもあったろうが、
現代においては、それはたんに外からの影響でのものであってはならないだろう。
みずからの自由において「狂」を選ぶこと。
たんに平凡に対する天の邪鬼というのではなく、
理念としての「狂」、理想としての「狂」。

自由における「狂」が最大限に振れながら、
それがある種の高みにまで押し上げられたとき、
ひとは真性の「中庸」へといたることができる。
だからそれは、静的なものではなく、かぎりなく動的なプロセスでなければならない。
最大の振幅がそのひとにおいて、その振幅に耐えうるだけのものとなり、
それが静的であるかのようにさえ持続的に見えている状態。
みせかけの中庸はすぐにその化けの皮が剥がれる。
それは小さくまとまった平安やつかのまの仮面にすぎない。

百年生きたとして、クレイジーでありつづけることができるか。
それを持続的に問いつつ生きていけるとしたら
いつか中庸の高みについてのなにがしかを得ることができるだろうか。
試みてみたい。