風のトポスノート611

 

●垂直的精神


2007.3.3

 

   大峯 たとえばヘルダーリンに「功績は多い。だが人は詩人としてこの世に
   住んでいる」という詩があります。世の中の人は皆功績によって生きている。
   学者なら学者、社長は社長、家庭の主婦なら家庭の主婦の功績がある。皆生
   きている以上、何かこの世に功績を残すことをやっている。そういう意味で、
   この世は功績でいっぱいだ。けれど、人はこの世で詩人として住んでいる。
   デヒターリッシュ(詩的)に住んでいる。ヘルダーリンはそう歌っています。
   その場合、詩人として住んでいるというのはどういうことかというと、実用
   性や有効性の次元と違う生の次元に触れているということです。
   池田 その詩人としての生の次元を、垂直的精神と私は呼んでいます。生活
   と生存のための社会的地平は水平ですが、詩的感性はそこに垂直に立ち上が
   るものです。
   大峯 そう、垂直。功績というものは水平方向に広がる。それがどこまで拡
   張できるかによって、勝ち組負け組ということになるんだけど、そうじゃな
   くて、垂直の方向の感受性が人間に一番大事なんだ。その感受性が詩人とい
   う生だと、ヘルダーリンはそういうことを言っているわけです。
   (池田晶子・大峯顯『君自身に還れ/知と信を巡る対話』
    本願寺出版社 2007.3.10発行/P.158-164)

今朝、yuccaが新聞を読んでいて叫んだ。
「池田晶子さんが亡くなっている!」
亡くなったのは2月23日のことで、公表されたのは2日のことだという。
本書『君自身に還れ』の「あとがき」に2007年3月とあるので、
その言葉が絶筆になったのかもしれない。

池田晶子はぼくの心のなかではある種、
数少ないけれども同時代に生きている同志のような存在だとしていて、
(もちろん個人的にはなんの関係もないのだけれど)
そういう人が亡くなってしまったのは大変残念である。
人智学はある意味で、プラトン的な方向とアリストテレス的な方向の
統合であるという側面があるが、その点でいえば、
池田晶子はプラトン的な方向を超えることはなかったものの、
その思考の範囲においては、これほどまっすぐで純粋なありようはない
と思えるほどに、それを体現していたところがある。

しかし、その範囲を超えた身体性や自然学的なところでの無自覚が
こうしてあまりに早い死をもたらしたところはあるのではないだろうか。
とはいえ、おそらく池田晶子の試みは、その広がりは別として、
そのいわんとするところは現在残されている言葉の範囲を
超えるところはないのでないかというのはある。
そういう意味では、死後の活動のほうの準備のために、
こうした急いだ死を選んだのだということもあり得ることなのかもしれない。
『君自身に還れ』というタイトルにもあるように、
池田晶子は、まさに垂直に!「還」っていったのだろう。

さて、「世の中の人は皆功績によって生きている」。
カエサルのものはカエサルに、で、
それはある程度は避けられないところはあるものの、
すべてをカエサルにしてしまうところで、
人は水平の奴隷になってしまうことになる。

水平の奴隷には自由はない。
自由の可能性を紡ぐためには、「垂直的精神」が必要となる。
人は本来、「垂直的精神」ゆえに存在しているからである。
その存在の根を忘れ去ったところで、多くの人は生きようとしている。
また世に「精神」(たとえば「日本精神」とやら)を説く者も多いが
その「精神」と称するものは、多く外的な枠をはめ込もうとする錯誤にすぎない。
「精神」は「内省」によってのみ可能になる次元であり、
それを強制するところに生まれる可能性はないのである。

自我も本来、垂直にこそ働くものであり、
それが誤って水平の勝ち負けのために行使されるがゆえに、
そのゆがんだありようが暴走してしまうことになる。
ブレーキのこわれた車のように。
そして、その車は本来、天空を飛翔するべきものなのに、
舗装された道路しか走れなくなっているのである。

「世の中の人は皆功績によって生きている」。
功績というのはマーヤーである。
シュタイナーもいっているように
「この地上世界は、どこからどこまで、すべてがマーヤー」なのである。
しかし、「功績」を否定するのもまた逆のマーヤーをつくりだし、
それにとらわれてしまうことになる。
禁欲が禁欲を自己目的化しまうことにもなりかねないように。

必要なのは、私たちが地上世界をマーヤーにしているそのありようを
自覚的なかたちで探求しながら、それを超えた
「垂直的精神」を獲得しようとすることなのである。
そうすることで、人は「死」を「生」と矛盾するものではなくすることができる。
「死」を拒否しようとすることで人は「生」にとらわれていく。
とはいえ、あまりに早い「死」を前にするとき、
いまだ「生」にある者としては、
こうした「死者」への手向けの言葉を捧げざるをえないところがある。
いちはやく身体から自由になりえた「精神」へ。