風のトポスノート609

 

日々の地道な霊的戦いの重要性について


2007.2.25

 

  間 ナチスが最初にやっつけようとしたのは、シュタイナーでしょう。
  高橋 それをシュタイナー自身も非常に意識していたんですね。それでこれか
  らもますますオカルティズムが流行するだろう。そして二十世紀の終わりにア
  メリカを中心にして、霊的な大戦争がおこるという一種の予言をしているんで
  すね。それをある弟子が具体的にどんな形ででてくるのかとききましたら、い
  ろんなオカルティズムが乱立して、その結果霊的な相対主義がおこって、何が
  真実で何が虚偽であるか、そういうことが全然わからなくなる状況がでてくる
  という言い方をしているんです。
  (…)
  もしこの状況を克服することが可能だとしたら、個々の人間の内部から、ひと
  りひとりが霊的に創り出すべきものであって、自分の困難な状況を社会全体へ
  投影してみても問題は解決しないということを言っているんです。
  間 僕もロックの文化論みたいな形をかりてそのようなことをつい5日ぐらい
  前に書いたばかりです。僕もそういうことはある意味で、否定できないような
  気がするんです。霊的な戦いのレベルでもしかすると変えることができるかも
  しれないという気がするんです。
  (リンディホップ・スタジオ=編『間章クロニクル』2006.12.20.発行/P.86
   高橋巌×間章「音楽とオカルティズムについて」より
   *タンジェリンドリーム『瞑想の河に伏して』『鈍色の世界に棲む精霊たちよ』
    『荒涼たる明るさのなかで!』『われら時の深淵より叫びぬ!』
    ライナーノート/日本コロンビア1976年 初出より)

音楽批評家、間章について、12人の語り部たちによる
7時間30分に渡る長編ドキュメンタリーが青山真治によって制作されたという。
この『間章クロニクル』はおそらくそれについてのカタログのような感じのも のだろう。
そのドキュメンタリーは昨年の12月12日〜21日にかけて、
アテネ・フランセ文化センターで一挙上映されたというが、残念ながら見ていない。
いずれDVD化されでもしたら見てみることにしてみたい。

ところで『間章クロニクル』のなかに、1976年の
間章と高橋巌の対談が掲載されていた。
間章は1978年に32歳で亡くなった。
間章は、シュタイナーの方向に向かおうとしていて、生前、高橋巌に
「私を弟子にしてください。10年たったら一緒にやりますから、10年待ってくれ」
という内容の手紙を送っていたということである。
もちろんすぐに亡くなってしまったので、10年後というのはないのだけれど、
1978年の10年後というと1988年。
ぼくがようやくシュタイナーに出会うことができ、
「これだ!」と確信を持ち始めたのがその1988年頃のこと。
間章のことは、生前ほとんど知らずにいて、
ジャズやシュタイナーの関係で、面白い人がいる
ということを知ったのはずいぶん後のことになる。

それはともかく、間章と高橋巌の対談を読みながら、
ひとつ気になる部分をこの引用ではピックアップしてみた。

「いろんなオカルティズムが乱立して、その結果霊的な相対主義がおこって、
何が真実で何が虚偽であるか、そういうことが全然わからなくなる状況がでてくる」
というのは、まさに現代がそういう状況になっているということがいえるかも しれない。
ニューエイジとかいうのもその大きな混乱した流れのひとつ。

いわゆる「精神世界」の状況について概観するには、たとえば、島薗進の新刊
『スピリチュアリティの興隆/新霊性文科とその周辺』(岩波書店/2007.1.24発行)
あたりを読んでみると、単にいわゆるニューエイジだけではなく、
「生活の現場で生きられているスピリチュアリティ」や伝統的宗教や教団的宗教など、
霊性やスピリチュアリティの現代についてのおおよその地図をイメージするこ とができる。

とはいえ、そのなかでも「はじめに」で以下のように書かれているように、
「新しいスピリチュアリティ」というのを総花的にマップ化したところで、
その質の部分をクローズアップすることができないのは
アカデミックな「研究」の限界だといえ、
この『スピリチュアリティの興隆』もおそらくその例外ではない。

  新しいスピリチュアリティには実はさまざまな運動や文化が含まれており、
  その輪郭を定めるのは容易ではない。ここ数年の間に、いくつも研究書がで
  ているが、なかなかその姿が明確にならない。現代スピリチュアリティ研究
  は方向を見定めかねているように見える。

いくら現象の河川の流れを地図にしたところで、
そこに何が流れているのかを見通すためには、
「研究」の枠からどうしてもはみ出してくるということになるため、
「研究者」としての言葉はほとんど隔靴掻痒の感を呈してくることになる。

間章の行ったような「音楽批評」の活動は、
そうした「研究」によるマップ化のような作業ではないとしても、
そしてある種の偏りはあるとしても、水平ではなく垂直による掘削によって
井戸を掘り出すことのできる部分があって、
こちらの魂もそのぶんゆさぶられてくることがある。

もちろん、そこにはある種のリスクもあるのだけれど、
「個々の人間の内部から、ひとりひとりが霊的に創り出すべきもの」を
(もちろん話にならないような、視野狭窄がほとんどになりかねないのだが)
客観的に見える総花的な研究というのは、むしろ
「霊的な相対主義」を容認しすぎて、結果的に
「真実で何が虚偽であるか、そういうことが全然わからなくなる状況」に
足並みをそろえてしまうことになりかねないところがあるのではないかと思う。

もちろん、「霊的な戦い」ということで、
ファナティックな態度で臨むのは、単に好戦的なだけで、
自分から墓穴を掘るために闘うようなもので、
むしろ自分から目をそらせるためのものでしかないだろうし、
逆に、すべてを単純に、「わくわく」、「ポジティブ」で、
そして「自分探し」ばかりするような脳天気なだけの態度は、
今のそのままの自分を肯定しすることで成長を放棄し、
目を瞑ってスキップを踏みながら落とし穴に落ちるような
そんな馬鹿げたことにもなりかねない。
またあまりにも霊的なことから目をそらし、「常識」に留まることで
肝心な道が見えなくなってしまうというのは話にならないところがある。

日々の霊的な戦いは、しっかり目をあけているということであり、
シュタイナーの示唆しているような、いわば現代的な「八正道」のもとで、
あらゆることに関心をもつべくセンサーを深く張り巡らせることであるように思える。
それはたいへん地道な歩みなので、
すぐに見た目の成果(に見えるもの)を欲するとしたら
何の意味もないようにも思えるかもしれない。
しかしそこを離れたところでは何もはじまらないのではないかと思っている。