風のトポスノート607

 

欠けていることの美しさへ


2007.2.14

 

   若いときって、ものすごくアンバランスじゃないですか。ものすごく欠けて
  るし。その欠けてることの美しさ。欠けているのにきちんと立とうとしている、
  無防備な透明感。それは自分なりに大切にしたつもりです。肉体的にも完成さ
  れてない。コントロールできるまでの人生経験も踏んでない。今日言ったこと
  が明日は違う。そんな情報があふれていて若い人たちって、何をつかんだらい
  いかわからない状態ですよね。でも“選べる”って、すごくフレキシブルで。
  きっと一本の筋ってきっとないと思うんですよ。揺らいでいて、すごくアンバ
  ランス。だから“点”なんです。それが大人になると“線”になって、何とな
  くかたちが彩られて“こうだ”という方向にもっていくんでしょうけど。点と
  点が離れているのが若い人で、その点から点に飛んでいると思うんです。でも
  そのアンバランスさって、美しく見えるんです。
   (菊地凛子/Invitation 2007年3月号
    特集「ココロもカラダも露わにした女優たち」 所収)

映画『バベル』で、アカデミー賞助演女優賞にノミネートされた菊地凛子への インタビュー。
この映画で、彼女は少なくとも4つの大きなハードルを乗り越えたという。
そのハードルの「その三」が「二十代中盤でティーンエイジャーを演じること」。
これはそれについてのインタビュー内容。

さて、その内容は別として、ぼくとしては、若い頃には戻りたくなんかないし、
ティーンエイジャーなんてとくにいやだと思うけれど、
たしかに「欠けてることの美しさ」というのは、
いまのぼくにはとうに失われてしまっているものであるのは確かである。

歳をとれば歳をとったなりに「アンバランス」なのは変わらないけれど、
「点」のアンバランスと「線」のアンバランスは違うだろう。
いちど「点」と「点」がつながってしまうと
もう「点」のゆらぎというのを取り戻すことはできない。
すでにプログラムされた状態からそのプログラムを外すむずかしさ。

思い出すと、自分のティーンエイジャーのころの
「点」としてのどうしようもなさには、
まだプラグラムされていない何かがあって、
それが美しいなんて自分では思えるはずもないとしても、
映画『バベル』で演じられるティーンエイジャーの
魂から血を流しているような「欠けてること」には、
どこかで郷愁のようなアンバランス「点」ゆえの美しさがあったのかもしれない。

その「欠けてることの美しさ」をもう一度得たいとは思わないが、
今なにかしら過剰なまでにプログラムされた状態から
自分を解き放ちたいという情動を感じることは多い。
すでに線であり面である自分を点として解き放とうとする衝動。
しかしそれは過去に戻るリセットであってはならないだろう。
それは、新たな意味での「 欠けていることの美しさ」を
獲得することでなければならない。
つまり、今の自分を思い込みでバランスさせないこと、
「そういうものだ」の集合にさせないということ。
みずからを成虫としてみなすのではなく、
卵として幼虫として蛹としてみなし、
いずれ訪れるであろう変容を待つこと。

歳を経ることでの魂の醜さがあるのだとしたら、
自らをすでにできあがったものとして
新たな状態への変容を拒むことによってそうなるのだろう。
そしてもし、ティーンエイジャーのころにそういう状態になってしまっているとしたら
そこにはプレの段階での「欠けてることの美しさ」さえ存在することはない。
そういう若い醜さを前にするときの気味の悪さは言葉にできないほどだ。
そういえば、小学校のはじめのころから、
「何のために勉強するのか」を問う子どもがいるという。
それはある意味すでに魂の醜い死だといえるのかもしれない。