自分の著作についてはあまり語らない人だったが、珍しく二年前の秋に「今 
            度、『文學界』に謡曲のことを書いたので読んでほしい」というおたよりをい 
            ただいた。謡曲には興味が薄かったのだが、「謡曲を読む愉しみ」と題された 
            そのエッセーにはシビレてしまった。特に「松虫」という作者不詳の曲につい 
            てのくだり。待つ無理の音に誘われた青年が草露の中で死に、それを悲しんだ 
            友も自害して果てたーーそれだけの物語。それを山村さんは「その死は、いわ 
            ば死の芯をなす死です。意味という意味、価値という価値を、ぎりぎりまでこ 
            そげおとした死です。/凄惨な感じはありません。いっそ清涼たる死です」と 
            書いているのだ。その味わい方の深さに私はシビレたのだ。 
             そのエッセーはこの八月に出版された『花のほかには松ばかりーー謡曲を読 
            む愉しみ』に収録されている。読みながら何度も思った。山村さんは一言でい 
            うなら、「深く味わう人」なんだな。生きることの中心が味わうということに 
            ある人なんだな。深く味わう力を培ったのは、たぶん死に対する強くて鋭敏な 
            感受性なのだろう、と。 
             八月十四日。<狐>兄からの電話でその死を知った。肺ガンの治療も順調で、 
            勤め先を辞めて本格的に文筆活動に入り、『<狐>が選んだ入門書』と『花の 
            ほかには松ばかり』があいついで出版されたばかりだったのだが……。でも、 
            山村さんは幸せな五十六年を生きたと思う。たくさんの書物をはじめ、愛する 
            ものを、そして自分のいのちを、誰よりも深く味わって生きたのだから。さよ 
            うなら<狐>。私はもうしばらくこの世に残って、<狐>好みの青空を探す。 
             (中野翠「さようなら<狐>」 
              山村修『書評家<狐>の読書遺産』文春選書552/2007.1.20発行 所収) 
        たとえ幻想にすぎないとはいえ、 
          人は死ぬことができるということで、 
          ずいぶんと生きることを味わう可能性を得ているのではないだろうか。 
        ぼくがこの書評家<狐>こと山村修の著書を 
          はじめて読んだのは昨年の7月のことで、 
          その1ヶ月ほどあとに亡くなってしまった。 
          その書評を読むことのなんと喜びに満ちていたことかを思い、 
          とても残念な気持ちになったことを覚えている。 
        それにしても、山村修の書評は、 
          いかにして味わい深く本を読むかを教えてくれる。 
          ときには、おそらくその本を実際に読むよりも、 
          その書評を読むことのほうが読む体験よりも深いかもしれないほどに。 
        味わう、ということ。 
          いかに味わえるかということ。 
          歳を経るにつれて、その味わうということの深さが 
          年々からだのなかにしみてきているような気がしている。 
        いまだぼくにとっては書くことはなかなかつらく、 
          味わいを表現するなど及びもつかないことなのだけれど、 
          ようやくにして、こうした味わうことの達人の文章に出会えるというのは、 
          なににもましてうれしい気持ちになる。 
        若い頃からぼくはそんなに長く生きることを望んではいなかったけれど、 
          「私はもうしばらくこの世に残って、<狐>好みの青空を探す」 
          とでも言ってみたいような気になることが多くなっている。 
          これも、死ぬことのできる人間の良さなのだろう。 
        生老病死。 
          仏陀は、それを四苦としたが、 
          その四苦こそが、人に味わいをもたらしてくれるところがある。 
          四苦ではなく詩句として。 
        もちろんすべてそれらの幻想を 
          あまりに重苦しくとらえてしまうことは避けなければならないけれど、 
      幻想の育ててくれる味わいというのも捨てたものではないのである。  |