風のトポスノート605

 

グノーシス的


2007.2.9

 

    幻想からの自由は、幻想を信じないことのなかにだけ存在する。
    (…)
    身体はエゴの偶像である……罪への信念が肉体を生み出し、それが外部に
   投影した。次に心のまわりの肉の壁と見えるものがつくり出され、心を小さ
   な時空の囚われ人にする。その囚われ人は死につなぎとめられ、わずかな一
   瞬を与えられて主人のためにため息をつき、悲しみ、死ぬ。この聖らかでな
   い一瞬が人生に見える……絶望の一瞬、水もなく忘却のなかに危なっかしく
   据えられた乾いた砂の小さな島。
    (…)
    あなたがこの世界は幻想だと認識したら、どうなるか?それは自分がでっ
   ちあげたのだとほんとうにあなたが理解したらどうなるか?その世界で歩き、
   罪を犯し、死に、攻撃し、殺し、自分を破壊する人たちはまったく現実では
   ないと気づいたらどうなるか?
    (…)
    救済とは解体である。あなたが身体を見ることを選ぶなら分離と無関係な
   事柄と無意味な出来事とでできあがっている世界を見るだろう。この世界は
   現われては死のなかで消える。この世界は苦しみと喪失を運命づけられてい
   る。誰も一瞬前と同じではなく、一瞬後もまた同じではない。これほど変化
   する場所を誰が信頼できるだろう。誰もがはかない塵に過ぎないとしたら、
   どんな価値があるだろう。救済はこうしたすべてを解体する。罪悪感をもち
   続けることをやめた代わりに見ることから解放された者の視界に、救済によ
   る安定性が立ち上がる。その人たちは罪悪感を手放すことを選んだから。
   (ゲイリー・R・レナード『神の使者』河出書房新社
    2007.1.30発行/P.189/214/278 /505)

『奇跡のコース』のことはどこかで耳にしたことがあったが、
それが何なのかを知ったのは、『神の使者』を通じてである。
なんだかニューエイジ系の人たちの売れ線をねらったようなタイトルなので、
半ば敬遠していたのだけれど、少し立ち読みして印象が変わり読んでみることに。
上記部分は、主に対話で構成されているなかで紹介されている
『奇跡のコース』からの文章であるということである。
そして『神の使者』はその解説書であるということもできる。
(『奇跡のコース』そのものは未訳。当然のごとくぼくも未読。)

『神の使者』は『トマス福音書』と深く関係している。
(どのように関係しているかは、ネタばれになるのであえて言挙げしない)
『トマス福音書』は、きわめてグノーシス的な福音書だとされている。
ぼくがこの『トマス福音書』のことを知り読んでみることにしたのは、
20年ほどまえに荒井献『隠されたイエス/トマスによる福音書』
(講談社/昭和59年4月16日発行 *今は講談社学術文庫に収められている)を
書店で偶然のように見つけたきっかけからである。
実際、ぼくが福音書の類をはじめて読んだのがこの『トマス福音書』で、
それまでは、福音書がいくつあるのか、その名称さえもあやふやなままで、
当然のごとく(部分的にどこかで引用されているものを除けば)
福音書に目を通したことはまるでなかったくらいである。

『神の使者』が『トマス福音書』と深く関係していることは、
そのグノーシス的な認識様態だということもできる。
シンプルにいえば、「世界は存在しない。幻想である。」ということ。
もちろん、だから世界なんでどうでもいいというわけではないし、
本書でも述べられているように、ここで示唆されているのは
グノーシスそのものであるということはない。
この物質世界の創造主デミウルゴスとかを持ち出してくるわけでもない、
ある意味でもっと徹底してこの世界そのものの幻想性を説き、
その幻想を認め信じないようにするべく、
「コース」として実践的な方向性をとろうとする。
そして、この輪廻の世界の輪からはやく逃れようとする。
(もちろんその輪廻そのものも実際は幻想なのだけれど)
仏教がグノーシス的だというのも、「正しい道」の実践を通じ、
輪廻の輪からの「解脱」をめざそうとするからだといえる。

ぼくが『トマス福音書』にひかれていたのも、
その仏教的なあり方に近い、
この世界そのものの幻想性を示唆していたからだろうと思うし、
実際ぼくには、「この世界は幻想」であり、
「幻想からの自由は、幻想を信じないことのなかにだけ存在する」というのは
小さなころからあまりにも親しいイメージであることは確かだった。
そしてそのことそのものは今でも正しいと思っている。
ぼくは、たしかにかなり「グノーシス的」ではあるのだ。

しかし、それはそれで正しいとしても、
ぼくがそのままではいけないのではないかと思ったきっかけは、
まさにシュタイナーを読み始めてからのことである。
シュタイナーが「人智学はグノーシスの改新ではありえない」と言っているように、
幻想のなかで生きていくしかない人間にとって必要なことは、
たとえ「幻想を信じない」としても、
その「幻想」について、そして「幻想」を生きているプロセスについて、
つまり物質、生命、感覚・感情etcについてのさまざまな働きも、
それらをまとっている幻想としての私たちの視点から、
これもある種幻想を多分にまとっている「自我」が「自我」を超える仕方で、
探究していくことが重要ではないかと思うようになったからである。

もちろん、世界そのものの幻想性をしっかりとふまえ、
世界そのものが「我が唯心の所現」であるという基本認識のもとに
生きることは基本であるのだけれど、
その「心の教え」だけでは、
ある種の「プロセス」を欠落させてしまうのではないか。
シュタイナーの人智学は、ある意味そのプロセスそのものでもあり、
現代を生きていく私たちが、この世界の幻想性に無知であるのも、
逆に「解脱」ばかりをめざそうとするというのも、
どちらもある意味で極端な2極化であるように思える。

もちろん、『神の使者』で示唆されているものは、そんなに単純な極ではなく、
2極化からの自由をめざすものであることは確かであるが、
そのなかでやたらと、その自由の特急コースのように示唆されるのは
(もちろん時間そのものが本来は存在しないというのではあるが)
どこかでなにか無粋な感じがしてしまう。
その無粋に感じるということそのものが無明ではあるのは確かだとしても、
ぼくは自由と遊戯ということには、いまのところまだまだこだわっていきたい と思っている。