風のトポスノート604

 

早期自己決定の陥穽


2007.2.7

 

    教育の逆説は、教育から受益する人間は、自分がどのような利益を得てい
   るのかを、教育がある程度進行するまで、場合によっては教育課程が終了す
   るまで、言うことができないということにあります。
   (…)
    「何のために勉強するのか?この知識は何の役に立つのか?」という問い
   を、教育者もメディアも、批評性のある問いだと思い込んでいます。現に、
   子どもからそういう問いをいきなりつきつけられると、多くの人は絶句して
   しまう。教師を絶句させるほどラディカルでクリティカルな問いなんだ、こ
   れはある種の知性のあかしなんだと子どもたちは思い込んでいます。そして、
   あらゆる機会に「それが何の役に立つんですか?」と問いかけ、満足のいく
   答えが得られなければ、自信たっぷりに打ち捨ててしまう。しかし、この切
   れ味のよさそのものが子どもたちの成長を妨げているということは、当の子
   どもたち自身には決して自覚されません。
    「何の役に立つのか?」という問いを立てる人は、ことの有用無用につい
   てのその人自身の価値観の正しさをすでに自明の前提にしています。(…)
   たしかに歯切れはいい。では、「私」が採用している有用性の判定の正しさ
   は誰が担保してくれるのでしょうか?
   (…)
    この個人的な判定の正しさには実は「連帯保証人」がいるのです。
    「未来の私」です。
    「私」に自己決定権があるのは、自己決定した結果どのような不利なこと
   が我が身にふりかかっても、その責任は自己責任として、自分が引き受ける
   と「私」が宣言しているのです。
    これが「何の役に立つのか?」という功利的問いを下支えしているのは
   「自己決定・自己責任論」です。これもまた「自分探しイデオロギー」と同
   時期に、官民一体となって言い出されたものでした。そして、それが捨て値
   で未来を売り払う子どもたちを大量に生み出しているのです。
   (内田樹『下流志向/学ばない子どもたち・働かない若者たち』
    講談社 2007.1.30発行/P.46-77)

人が成長するにはプロセスがある。
シュタイナーによれば、赤ん坊として生まれてくるのは、
肉体の誕生であって、その後7年ごとに、
エーテル体、アストラル体、自我というふうに生まれていく。
生まれてくるまえは、まだ覆いのなかにあるような状態なのである。

小さな頃から自己決定する子どもたちは
ある意味で、自我の誕生を数十年も先取してしまうことになる。
生まれてくるにはあまりにも未熟な自我が
いきなり外界にさらされてしまうような状態になる。

教育の現場で、ときに小学校の一年生でさえもが発する
「何のために勉強するのか?何の役に立つのか?」という問いは、
本来、そのときには問うことのできない類の問いであるにもかかわらず、
自らの成長プロセス、つまり時間を生きるという人間の知性の条件が
無視されることで発されてしまう問いである。

内田樹によれば、こういう事態になったのは、
子どもたちが「消費主体」として人生をスタートさせ、
教育も、教師が提供する教育サービスという商品として
受け取るようになってしまっているからだという。

たしかに、ある商品を買うためにはお金と交換すればすむ。
その買い手が子どもであろうが大人であろうが、
その商品に応じたお金さえあれば商取引は成立する。
その「等価交換」においては、いわば「時間性」は必要ない。

    等価交換というのは、空間モデルです。つまり、二次元的に表象できる。
   「絵に描ける」ということです。
   (…)
    しかし、学びのプロセスは空間的に表象することができません。「絵にも
   描けないもの」、それが「学び」のプロセスを賦活しています。
    「絵に描けないもの」とは何でしょう。消費主体として、等価交換原理で
   生きる人間には決して表象できないものとは何でしょう?
    考えれば簡単ですね。それは時間です。
   (P.60)

ある意味、とてもむずかしいことなのだけれど、
学ぶというときの条件は、
その学ばれる内容をまだ得ていないということである。
だから、まだわからないものに対して、
ある種、信じてみずからを預けるということがそこでは必要となる。
そうでないと、学ぶことができない。
とくに、まだほとんど何も学ぶことのできていない状況において、
自己決定・自己責任はほとんど不可能であるということになる。
その不可能な行為を、まだ未熟児状態の自我が行なおうというのだ。
おそらくそのとき、その子どもは、何も学ぶことができなくなってしまい、
つまりは自我として成長することができなくなっている。
これはかなり恐ろしいことである。

その意味で、本書は、かなり激しいホラーものであるということもできる。
実際読みながら脂汗のでるような気持ちに何度なったことか。
しかし、そのホラーの先には、深い愛とポエジーが待っているのだけれど…。

ところで、子どもだけではなく、
たとえば「自分探し」の好きな、すでに肉体としては大人の存在も、
自分を時間においてプロセスを生きることができないがゆえに、
学ぶということのできない人であるということができるかもしれない。
つまり、今の自分が自分を探そうとしても、
その探す自分はこれから育てていなかければならない未来の自分なので、
「あるがままの自分」を信仰しても、ただ空間的な表象のなかで、
成長を拒否して閉じて停滞してしまうだけなのである。

学ぶということは、ある意味、
まだ成長していない自分が未来の自分を信じながら、
そのプロセスにおいて自らを他に委ねなければならないという矛盾のもとにある。
「師をもつ」ということもそこで重要な方法になる。
もちろん、その「師」を狭くとらえる必要はないのだけれど。