風のトポスノート603

 

高次の秩序へ


2007.1.28.

 

    人間が存在しているだけでものすごく神秘的なのに、誰もその神秘に気づ
   かない、というのが世俗というものです。何でもない人がものすごく神秘的
   なのに、その人は自分の神秘に気づかない。だから武満の中にある音楽の神
   秘も気づいてもらえない、という不条理が彼の人生にはあったと思います。
   自分と同じ感性の人間が、この世にいないという絶望があったのではないで
   しょうか。
   (…)
    今までのクラシック音楽のような調性というルールに則った音楽は、どう
   始まって、それがどう終わるか、ということがわかるように出来ています。
   けれども武満の音楽はわからない。バッハやベートーヴェンの古典音楽の時
   代には、ナイフとフォークをどう使ってどう食べてどうやってワインを飲め
   ばいいかというテーブルマナーがあったわけです。武満の音楽は、道徳的に
   高い秩序をもっていますからマナーはあるんだけれど、どのナイフやフォー
   クを使って食べるかということがないわけです。箸で食べるのか、手で食べ
   るのかすらわからない。要するに聴く耳を持たない人には入れないようにな
   っているわけです。何かにあてはめることのできないもっと本質的なもの、
   人間という神秘そのものなのです。
   (…)
    武満の音楽は聴き終わった後に、まるでビッグバンの前の静寂に戻ってし
   まうかのような感覚に陥ります。ですから彼の死後、その音が途切れてなく
   なり、十年経った今、みんなが武満の名をことさら口にするのでしょう。彼
   の音をいったん聴いた人間は、音が止んでしまうと不安のどん底に陥ってし
   まう。それは、この音がいつか終わってしまったらどうなるのかわからない、
   という宇宙体験と同じものを感じているのだと思うのです。
   (篠田正浩『武満徹/音の森への旅』
    NHK知るを楽しむ/私のこだわり人物伝 2007.2.1発行/P.158-164)

好きな音楽家をひとりだけあげよといわれれば、バッハになるけれど、
もうひとりといわれれば、武満徹と答えるだろう。

武満徹の音楽を必要以上に神秘めかして語るのは好きではないけれど、
武満徹を聴く耳はどこか神秘に耳を傾ける耳でもあるように感じることが多い。
しかも、同時にそこには限りない自由の感覚がある。
それを「音が止んでしまうと不安のどん底に陥ってしまう」
というふうに表現することもできないではないが、
「武満の音楽は、道徳的に高い秩序をもっていますからマナーはあるんだけれど、
どのナイフやフォークを使って食べるかということがない」
という意味での不安と同時的にある自由だととらえるほうがぼくは好きだ。

「道徳的に高い秩序」というのは、
「こうしなさい」というものであるはずはない。
「己の欲するところに従いて矩を踰えず」
というのが、自由そのものの高次の秩序だろうからである。

自由を不安や秩序破壊のもとのようにとらえるむきもあるが、
そのときの自由は高次の秩序へ向かうものとしてではなく、
たんに「己の欲する」が行方を持たずに暴走する姿以外を
描くことのできない想像力の欠如からきている。
その想像力の欠如は、その人そのものの「道徳性」の限界をも示唆している。
もちろん、「あるがまま」を稚拙にとらえて、
そこに高次の秩序への志向を自由において持たないならば、
その自由は放埒と同居した不安以外のものではありえないのは確かだけれど。

バッハを聴くときの耳も、
ぼくにとっては武満徹を聴く耳に近いところにある。
あの高度に構築された音の世界は
それそのものが宇宙の高次の秩序へ向かう自由であると聴けるからである。

その自由の感覚は限りない神秘そのものでもある。
なぜ今ここにこうして存在しているのか。
その神秘はとらえどころのない不安でもあるが、
自らが自らの内から自己組織化しえる高次の秩序への自由でもあり、
その自由は、マクロコスモスとミクロコスモスが照応しながら、
この「我」のなかの深みで息づいているものであるだろう。
それを聴くことができるかどうか。
それは、己のなかの可能性として、自由において、
「道徳的に高い秩序」を獲得できるかどうかということでもあるように思える。

さて、最初の引用は、映画監督の篠田正浩による武満徹の話である。
とくに、武満徹の映画音楽づくりについてエピソードなどの興味深く読める。

どうしてか、武満徹の言葉もそうだし、武満徹についての話は
いくら読んでも飽きるということがないが、
おそらくそれは、最初からある秩序のなかから音楽活動をはじめたのではない
武満徹の無頼や自由の感覚への憧憬ゆえのものでもあるかもしれない。
しかも、その音楽は、武満徹の残した言葉がそうであるように、
そこには絵画や哲学やといった音楽以外の宇宙的諸要素が
共通感覚的に息づいているからだろう。