風のトポスノート602

 

第三次言語


2007.1.27.

 

    ハイデガーは日常性を頽落と呼び、人間の「本来性」をより高みにおいて
   イメージしたようだがーーそれはヨーロッパの世界の思考の通例のパターン
   だろうがーーわたしにとっては、日常つまり第二次言語の世界は、一般のい
   わゆる健全な人々の、生活上の便利に枠づけられた生活であって、第一次言
   語としては、日常性より下、その気づかれぬ根元にあるもの、地下のもので
   あり、幼いもの、老いたもの、障害のあるものなど、日常生活から落ちこぼ
   れたものたちは、そこにしか生きられぬ「本来」のものなのだ。
    ここから立ち上がった声は、「ことば」となって根元の「からだ」の地平
   を離れ、独立して、制度としての第二次言語となり「日常生活」を形成する。
   しかしそれはくり返し下から噴き上げてくる第一次言語としての力とイメー
   ジによって引き裂かれ、くつがえされ、新しく形成され直すだろう。
    そしてわたしのイメージ、というよりは目指す方向として言えば、この第
   二次言語の制度化と崩壊と再生がくり返されつつ、ことばの様式形成力と合
   体してさらに上昇し、生活次元を突破する時、第三次言語とも言うべきもの
   が時として突如生まれる。詩。そしてそれを超えてさらに素朴な超日常的な
   ことばに環流した時、その声のみが、「地下」の「本来」の層にとどき、そ
   こで真に開花するだろうーーたとえばイエスや釈迦のことばのように。
   (竹内敏晴『声が生まれる/聞く力・話す力』
    中公新書 2007.1.25.発行/P.181-182)

日常のことばの多くは、すでに死んでいる。
コミュニケーションといっても、いったい何が伝わっているというのか。

ことばの「意味」の一部がかろうじて伝わったとしよう。
「Aがほしいのだけれど」「これですね」「ありがとう」
たしかに、話者の「Aがほしい」という意図はそれで達せられるとしても、
その種のことばだけがあるとしたら、あまりにも貧しい。
言語ゲームではあるとしても、ゲームとしてのことばは、
「日常生活」を超えるものであることはできない。

そして、「日常生活」のことばの根底にあったであろう
ことばのマグマのことを忘れ去ってしまっていたとしたら、
そのひとのことばは、まさに死せる機械でしかなくなっているのだろう。

死せることばしか感じとれなくなったひとが、聞き、そして話すとき、
たとえそれがとても雄弁であったり、情報整理能力が高かったとしても、
それは言語ゲーム以外のものであることはできなくなっている。
そのとき、たとえマグマのようなことばを耳にし、
また目にする機会を持てたとしても、
それらは死せる関数によって変換され、
すでに生きた力を失ってしまっているはずである。
そのひとの聞き、話すための回路は目詰まりを起こしてしまっているからである。

しかし、だからといって、
ただ、ことばの「本来」に戻れ、
それを取り戻せ、というだけでは、
生きたことばを獲得するということにはならないだろう。
動物が吠え、鳴くように、ことばをつかったとしても、
それはいまだことばとはいえないように。

ゆえに、詩がある。
詩的機能が必要となる。
詩的機能、もしくは美的機能とは、
日常におけることばの働く枠組みを変容させるということである。

ノヴァーリスが「すべての学はポエジーになる、哲学になったあとで」
といったように、ある意味、ことばもポエジーとならなければならないのだろう。
もちろん、それを真性の哲学によって貫いた上で。

シュタイナーのことばを読むと、
それが、哲学に裏付けられた真性のポエジーに満ちているのがわかる。
そのことばを、日常言語のレベルで読もうとしても、
なにがいわれているのがさっぱりわからないだろう。
ことばをかえれば、そこにあるのは決して「答え」や「マニュアル」ではなく、
ポエジーに満ちた「問い」であるということもできるかもしれない。
だから、「Aとは何ですか」「Bという結果のためになにをしたらいいですか」
という結果主義的な発想しかもたなければ、何も得ることはできないかもしれない。

もちろん、そこにコミュニケーションがないというのではない。
コミュニケーションに詩的機能、美的機能を加えて、
高次のコミュニケーションが成立しているということができる。
ある意味で、それこそが神秘学のありようだということもできる。
竹内敏晴が第三次言語とよんだイエスや釈迦のことばも、
おそらくそうした高次のコミュニケーションにおいてはじめて成立するのだろう。
禅の「柳は緑花は紅」という一見日常的なことばも、
それは第三次言語としてとらえるときにはじめて
世界がそこに開かれてあるということがわかるように。