風のトポスノート601

 

私という種


2007.1.22.

 

   音楽は時間の中でしか聴くことができません。
   時間は常に「今」を過去に、記憶にしていくことで意味を持ちます。
   時間を生きることは、無常であり永遠から遠ざかることでもあるようにも
   思えます
   しかし、音楽を愛する人ならば、その無常のなかに
   永遠を聴き取ることができるということを疑うことはないはずです。
   
   「光を見るためには自分のなかに太陽がなければならない」
   というゲーテの言葉にならっていえば、
   私たちが永遠を聴き取ることができるということは、
   私たちのなかに永遠があるからだということにならないでしょうか。

   ランボーは「永遠」を見つけ、
   ゴーギャンは「私はどこから来てどこに行くのか」と問いかけました。
   そのランボーとゴーギャンのなかにも、
   そのポエジーを可能にするだけの「種子」があったはずです。
   そんな「種子」としての「私」。
   永遠に出自を持ちながら永遠を去り、再び永遠へと帰還する「私」。
   そのプロセスそのものが「永遠の花」ではないか。
   
   (「一橋大学津田塾大学合唱団ユマニテ第44回演奏会・プログラム」
    3rd stage 「私という種」  解説/KAZEより
    作曲・石原啓子/作詞:KAZE 
    2006年12月9日 於: 所沢市民文化センターミューズ アークホール)

昨年の夏、メールが届いた。
トポスのHPに掲載してある詩に曲をつけて合唱曲にしたい、という。
承諾のメールを送りその3ヶ月後、完成し、12月の9日に演奏会が開かれた。
合唱曲になったのは、「私という種」という詩である。
http://www.bekkoame.ne.jp/ ̄topos/yugi/tategoto5.html
自分でも書いたことをすっかり忘れていた内容だった。
1999.11.10と日付が打たれてある。

その演奏会を録音したCDを送ってもらった。
遠方なので演奏会に足を運ぶことができなかったため、
どんな曲になっているのかそれではじめて知ることができた。
よくあの長めで少し理屈っぽい内容を
ドラマティックな合唱曲にできたものである。
かなり複雑であるにもかかわらずとてもよくまとまっている。

その演奏会のプログラム用に解説のようなものを書いてみたのが、上記である。
ちょっと気取って書いてみてはいるが、
テーマは、まさに「永遠」と「私はどこから来てどこに行くのか」である。
そして、そこに「なぜ人間なのか」というテーマを
「自我」(私)と「自由」ということで織り込んだ内容となっている。

ところで、舟沢さんが#12048で紹介されていた
セラノ『ヘルメティック・サークル〜晩年のユングとヘッセ』(みずず書房)を
先日ようやく手に入れて読んでみた。

邦訳の副題にあるように、著者のミゲール・セラノが
最晩年のヘッセとユングと会ったときの話と書簡等で構成されている。
ヘッセもユングも西洋人でありかつ東洋的なものを取り入れながら
そのなかで、人間の自我とその永遠への帰還について
さまざまに探求を続けてきたであろうことが、
晩年の静かな生のなかで浮き彫りにされている。
そして、そこである種、秘教的なものに近づきながら、
西洋人ならではの理性ぎりぎりのところで立ち止まっているような印象を得た。

ちょうど、ダスカロスの『エソテリック・ティーチング』(ナチュラルスピリット)が
邦訳・刊行されたところなので、早速目を通してみた。
ここには、秘教的なキリスト教の中核にある視点が明確に記述されている。
ある意味、ここに記されている内容こそ、
ヘッセとユングの探求のその壁を超えたところにある内容だろう。

そして、そこに描かれている「永遠のパーソナリティ」と
「現在のパーソナリティ」との関係こそが、
ある意味、上記の「私という種」のメインテーマだともいえる。
おそらくこの「私という種」を書いたときのぼくは、
そうしたエソテリックならではの視点をポエジーとして
表現したいという思いがあったのだろう。

その「永遠のパーソナリティ」と「現在のパーソナリティ」との関係を
上記『エソテリック・ティーチング』から少しご紹介し、
「私という種」の背景にあるエソテリックな部分について示唆しておきたい。

    永遠のパーソナリティは空間・場所・時間の世界に幾つもの現在のパー
   ソナリティを投影し、さまざまな経験を積んで智恵をつけ、絶対存在との
   一体化に向かって、安全に旅をしていくようになります。
   (…)
    それぞれの転生ごとの現在のパーソナリティは、永遠のパーソナリティ
   がその都度つける仮面のようなものだと言えます。
   (…)
    永遠のパーソナリティは一時的なパーソナリティとして分離の世界に入
   り、そこで私たちが知っているような人生を経験し、その過程でいろいろ
   なレッスンを受けることになります。また、永遠のパーソナリティの自己
   を、“小さな円”に例えることもできます。それは、いつの日か自己認識
   ー魂と呼ばれる“大きな円”の外周に届くまで、拡がっていきます。この
   ように、人間の一人ひとりには、2つの同心円があるのです。その一つが
   自己を認識している魂という大きな“外周”で、その大きな円の内側に、
   同じ中心をもった小さな円である永遠のパーソナリティがあります。
   (…)
    小さい円は大きい円の外周に到達するまで、途切れることなく拡がって
   いきます。小さい円は、大きい円に同化するまで拡大し、私たちの永遠の
   パーソナリティの自己は、異なった転生と経験により、自己認識ー魂に一
   体化する時点まで、それを拡大していくのです。
   (…)
    それでは、やがて大きな円に達し、そこに吸収された時、小さい円は消
   失してしまうのでしょうか?小さい円が経験した一切がその時、消えてな
   くなってしまうのでしょうか?
    そんなことはありません。私たちは現在の自己、すなわち「これが私」
   「私はこう感じる」「私はこう考える」「私はこのことや、あのことを理
   解する」と思考する“自分”を失うことはありません。なぜならその自己
   は、私たちの「永遠の自己性」に属しているからです。

こうしたエソテリックな視点のなかには、
結局、ヘッセやユングがどうしても西洋と東洋を統合することが
一歩手前でできずにいた視点が含まれている。

とはいうものの、ヘッセやユングの重要性は、
西洋的なあり方のプロセスをきちんと踏みながら
その扉の前まで至ることにあったのではないだろうか。
そういう意味では、そうしたプロセスを踏まないで
結果だけを受容するようなあり方を慎む必要があるように思う。