風のトポスノート600

 

オープンソース思想


2007.1.18.

 

   梅田/オープンソースが生まれた時、そうは言っても開発者たちは自分た
   ちにとって面白いことしかしないんでしょうって、言われていたんです。
   例えばバグが出てしまったのを直すというようなつらいことはきっと、誰
   もしないよと。だから大企業の基幹系システムの根幹にはオープンソース
   は使えないと言われていました。ところが、企業の強制力によって雇用者
   たるプログラマーにバグを直させるスピードより、リナックスで自発的に
   バグが取れるスピードのほうがうんと速いんです。
   (…)
   梅田/(…)そもそも普通の経済の世界では、人に何かをさせるっていう
   ことの道具が二種類あって、一つは雇用で、もう一つは市場または取引で
   すよ。そこに金が介在する。でもオープンソースの世界には「君、このバ
   グ直しなさい」っていうメカニズムがない。人に何かを強制させる道具立
   てがない。「こういうバグが出たときには、あなたが直すんだよ」ってい
   う取り決めすらないんです。だから誰が直すか決まっていない。だけど、
   「ここでバグが出たよ」ということが情報として共通されると、あっとい
   う間に誰から直している。
   (…)
   梅田/人類への貢献という考えはあまりないかもしれませんね。「面白い」
   「偉い」「すごい」と言われること、つまり仲間内の賞賛と、ベースには、
   自分たちは正しいことをやっている、大きな流れの中でダークサイドに堕
   ちてない、ということが、彼らにとっては大事なんだろうと感じます。そ
   んな気持ちを持っている人が、トータルで今三百万人ぐらい世界にいて、
   彼らの共有の価値観ってやっぱりあるんですよね。「オープンソース思想」
   というようなものがあって、それが僕にも相変わらず謎なのですが、やっ
   ぱりそこに、エッジが立った何か新しいある種の思想を体現した人間が登
   場したのではないか、ということを感じているんです。
   (梅田望夫・平野啓一郎『ウェブ人間論』新潮選書
    2006.12.20.発行/P.157-159)

今、外的な世界でもっとも変化が激しいのは、ウェブの世界だろう。

ぼくがパソコンをはじめて購入したのが、たしか1982年か1983年頃で、
その頃はゲームをするくらいが主で、日本語を扱うのもカタカナだった。
データもカセットテープに記録していた。
そのころは、まだCDも普及してはいなかった。
その数年前、大学で「情報処理」の授業をとろうとした(挫折したけれど)ときは
まだパンチカードの世界だった、

それから10年と少し後、NIFTY-SERVEのパソコン通信をはじめたのが1991年。
「神秘学遊戯団」の前身「シュタイナー研究室」もはじまっている。
そして、インターネットに移行するのがその6年後の1997年。
そのころには、まだ自分でCDを焼いたりDVDを焼いたりはできなかった。
それから数えても、すでに足かけ10年が経とうとしている。

今の若い人たちでコンピューターやウェブが当然のようになっている人にくらべれば、
そうした道具への理解やスキルなどはほんとうに貧しいものでしかないが、
幸いに、パソコンの存在する前の世界から現代までの
二十数年間をそれなりに見てきながら、
リアルタイムで道具を導入してきたことは幸運だったかもしれないと思っている。
なにかが存在するのが最初からあたりまえであるとすれば、
その存在そのものへのメタレベルでの視点を持ちやすくなるからである。

さて、オープンソース思想である。
これは直接の利害なしに、自発的に共通のソースを発展させようとする考え方、
だということができるだろうか。
しかもその際、利害や組織で縛られるよりもよりハイペースでそれが進んでいく。

こうしたオープンソース思想が成熟しようとしているとしよう。
そのためには、前提として、ウェブがある程度の量と質を獲得する必要があった、
ということはいえるだろう。
そしてその量と質の進展と平行して、あるいはそれを準備するかのように、
利害や組織から自由な動きがでてきている、と。
「リベラルで開放的ですべてを共有していて中央がないというのがベースに」あって、
「自分が何かをすると世界が変わるっていう創造の喜びが、基本になっている」
ともいえる。

ウェブの世界には、混乱もあり、
いわゆる「リアルな世界」への不適応も見られるだろうが、
ウェブが「場」となって成立させるであろう
「述語的世界」の可能性については注目をしていく必要があるだろう。
利害や組織的で「中央」的な発想を「主語」的な世界というふうに見るならば、
それらから自由であろうとする関係性の網の目、まさにウェブの世界。

そういうふうに考えていくと、
自分でもよくわからないままに、
こうしてシュタイナーや神秘学をテーマとした場所を
ネット上でなにがしか開いてみているぼくのなかにも、
そうした「オープンソース思想」の種のようなものがあるのかもしれない。

今となってみれば、ぼくのやっていることは、
ウェブのなかでは、すでにけっこうなアナクロニズムになっているところもあるなあ、
とか感じることもあるのだけれど、
ウェブ前とウェブ後をリンクさせていくための
ひとつの浮動する結節点のようなものになることができたならば、とも思って いたりする。