風のトポスノート599

 

感覚の危機


2007.1.13.

 

    神尾院長は以前から「現代日本の五感が危機にさらされている」と警告
   している人である。(…)
   「現代は五感が酷使されすぎているんだよ。そのうえ広告業界などで『五
   感商品』と言われるような商品の開発が進んだり、<二感・三感効果>を
   意図した複合的な刺激で『感動』を与える『感動商品』と言われるものが
   あるように、ますます強い刺激を五感に与える方向に向かっている」(…)
    しかし、こんな環境に暮らし続けていれば、五感は過剰な刺激にくたび
   れ、麻痺してしまう。(…)
    刺激の過剰は、五感の器官を破壊するのみならず、その結果、精神的も
   大きなストレスとなってしまう。となれば、いっそう大変な問題だ。
    もっとも僕自身の興味は、そのような危機によりは、五感の衰えという
   事態と同時に進行している、感覚の画一化ということのほうに向いてしま
   う。(…)
    産業構造や生活様式の変化に対応して感覚のモードは変化する。身体も
   変わる。そのこと自体は当然のことだ。だが、生活のなかで知覚されるほ
   とんどすべてのものが商品である現代の都市生活にあって、そのことに無
   自覚でいるなら、<五感の倫理>は資本の論理に埋没してしまうだろう。
   (…)
    僕らの五感はその多様な可能性を、ずっと何者かによって奪われ続けて
   きたのではないだろうか。
    僕はふと、手塚治虫の劇画『どろろ』に登場した百鬼丸を思い出す。百
   鬼丸はさまざまな妖怪たちと闘っては、幼いときに奪われた自分の身体パ
   ーツを一つずつ取り戻していった。僕もさまざまな職業の鬼たちの仕事に
   ついての“語り”、いわば一種の「芸談」に向かい合うことで、自分の感
   受性の本来の可能性について見直してゆきたいと思う。
   (田中聡『匠の技/五感の世界を訊く』徳間文庫/2006.3.15.発行/P.9-11)

先日、生まれてはじめて腰を痛めて以来、
生活上はなかなか苦しみを味わっているのだけれど、
たぶん大丈夫だろうと思い(こんで?)医者にも行かずに
今の状態を楽しみ(というのも変だが)ながら過ごしている。

痛みによって損なわれてしまう感覚ももちろんあるのだが、
こうした痛みによってしか得られない感覚があるのはなかなか面白い。
それまで無造作に動いていた自分のさまざまな動きが、
痛みをもたらすかどうかということでずいぶん意識化される。
立ったり座ったり寝たり起きたり着替えたり・・・にずいぶん工夫が要求される。
自分の履いている靴がどういう状態にあるのかもわかるし、
座っている椅子の状態、歩いている地面の状態なども微細に感じとることができる。
地面の材質や弾力、微妙な傾斜など、無造作な動きをしてしまうと、
すぐに痛みにつながってしまうので、それまで意識していなかったところが
へ〜え、ほんとうはこういう状態だったんだということがよくわかる。

今はすいぶんよくなったのだけれど、
少しずつ身体の状態がもどっている、その微妙な変化を通じても、
自分の身体と外界との関係の変化が興味深く感じとることができる。

会社などの大方の方は、まず、「注射を打ってもらって痛みをなくさないと」とか
整体や針治療などで、わりと即効的な治療以外の発想がないのがあらためてわかった。
もちろん、外科的な意味での危険度があれば考慮する必要があるのだろうが、
少しの痛みも我慢するとかいう発想がないほうが、ずっと病んでいるような気がする。
医療費が限りなく膨大なものになってしまっているのは、
こうした安易な依存心と痛みへの恐怖心、忍耐心のなさが大きく影響している のだろう。
しかも、そうした安易さは、病を真に癒すのではなく、
病を隠すかほかの病へと転化させることで、ますます病んでいくという構造を もっている。

さて、私たちは五感(シュタイナーによれば十二感覚)を通じて世界を知覚し ているが、
その五感のありようが、現代においては急速に変化しているのは間違いないだろう。
五感への刺激過剰、それと同時に、苦痛や不快に対する耐性の欠如、
そして、マスメディアやマス商品を通じた感覚の画一化が急速に進行している。

先に自分の実体験を書いてみたが、
五感の状態というのは、それを奪われたり過剰になったりすることで、
適度に意識化することさえできれば、そこからずいぶんさまざまなことを学ぶ ことができる。
しかし、意識化しないために、感覚を意図的に取り除いたり、
逆に過剰な刺激のもとに置いてしまうと、
そこにはさまざまな危険が待ちかまえているのではないだろうか。

引用にもあるが、手塚治虫の劇画『どろろ』(ちょうど実写で映画化されたところ)の
百鬼丸は、生まれたときに妖怪に身体のパーツや感覚を奪われた。
それらを取り戻すために、私たちは妖怪と戦わなければならないのではないか。
そのなかのひとつには、いわゆる霊性の獲得のために必要な感覚も
ずいぶん含まれているようにも思う。