風のトポスノート598

 

詩に興こり、礼に立ち、楽に成る


2007.1.13.

 

   子曰く、詩に興こり、礼に立ち、楽に成る。(泰伯8-8)
   (…)
   先生がおっしゃった。教養というものは詩の感動から始まり、それが文化の
  体系に立脚し、調和のある文化として完成されるのだ。
   「詩に興こり」と言い、「詩は以て興こすべく」と言う。なぜか。そこに人
  間の真実の心情が表われているからだ。(…)
   従来の漢字学一新する独創的な研究で知られる白川静は、「興」の字に注目
  する。「興」は地霊を呼び起こす宗教的意味を持つのだと。
   我々は、感動なるものをつい近代的個人の感動としてのみ考える。しかし、
  それは時には独りよがりや、さらにはハッタリに陥る。「狂にして直ならず」
  (泰伯8-16)、規格からはみ出す(狂)ほど独創的であるように見えながら、
  その実、内面はねじまがった(直ならず)野心に燃えている、という例は少な
  くない。(…)
   感動は、歴史の中に現われ、人間の広がりのなかに共有される。
   しかし、それでも詩の出発点は感動なのである。
   「先生はおっしゃった。礼だ礼だと言う。それは、儀式に使う玉器や絹衣の
  ことなのか。楽だ楽だと言う。それは、鐘や太鼓のことなのか」(陽貨篇17-11)
   えてして体系化された文化は形式主義に陥りやすい。孔子はそれを厳にいま
  しめてもいるのである。
  (呉智英『現代人の論語』文春文庫/2006.11.10.発行 /P.43-46)

「すべての学はポエジーになる・・・哲学になったあとに」
というノヴァーリスのことばが好きで、HPのタイトルに引用している。

仏陀、キリスト・イエス、モハメッドと世界の3大宗教の開祖は
こぞって歌舞音曲に否定的だが、
面白いことに、孔子(宗教的要素の強い儒教の開祖としてとらえてみる)は
音楽に我を忘れてしまうほどの音楽好き、そして詩を重視する。

孔子は、鬼神を語らず、といい、
それまでのシャーマニスティックなあり方を継承しようとはしなかったが、
霊的なものを必ずしも 否定したわけではない。
敬して遠ざけたとでもいえるだろうか。
孔子がもっとも重んじた「仁」という文字に「人」があるように、
地上を歩む新たな時代の人間のあり方を「礼」などの原理(?)に基づいて
自己教育的に基礎づけようとしていたととらえることもできるかもしれない。
もちろん、孔子は、希代の教育者でもあったことを忘れてはならない。

孔子は「心の欲するところに従いて矩を超えず」とも言ったが、
矩を超えないのが最初から重要であるとすれば、
それは形式主義や外的規範のほうに傾斜していくはずであるが、
「心の欲するところ」、つまり「詩に興こ」ることから発したものを
自己教育的に礼や楽として成熟させていくことを意図したように思える。
通常イメージされる儒教のイメージとはかなり違う。

「狂」であることも重要である。
最初から規格のなかに閉じこもっていて
その範囲で「直」であったとしてもそれがいったい何の意味を持つのだろう。
まるであらゆる欲望をスポイルすることで安定を図るようなものだ。
人をほうっておくとろくなことはしないといって、
食事などエネルギー源となるものを最小限に抑えて
しかも刺激になるような環境から遠ざけておくというのは
対処療法としては有効かもしれないが、
それでいったい人間から何が創造されるというのだろうか。
燃えさかる欲望をいかに制御するか、
そしてそれをエネルギーとして「直」に変容させるかということが課題である。

もちろん、「狂」であることそのものを目的としたときには、
カオスのためのカオスをつくりだすような錯誤に陥ってしまう。
「狂」は、「哲学」によって「直」になることで、
そのエネルギーを「ポエジー」へと向けたときにはじめて
それそのものが「楽」となり「礼」ともなり得るのではないだろうか。