風のトポスノート597

 

善への欲望 と自由


2007.1.11.

 

   私にとって重要であり、私がそれをぜひとも手に入れたいと望んでいるのは、
  「私が知らない情報」であり、かつ「『私はそれを知らない』ということを知
  っている情報」です。
  (内田樹+釈徹宗『インターネット持仏堂/いきなりはじめる浄土真宗』
   本願寺出版社/2005.3.23.発行 所収「その1 内田から釈先生へ」より)

  「欲求」(besoin)と欲望(desir)、言葉は似ていますが、レヴィナスはこれ
  にまったく異なる定義を与えています。
  「欲求」とは「本来あるはずのものが欠如した状態」です。ですから、「欲求」
  は「現状回復」を求めます。(…)
   これに対して「欲望」とは、欠落があることは確かなのだが、何を持ってそ
  の欠落を埋めることができるのか、そもそも自分が何を求めているのかを言う
  ことができない、というような欠落の仕方のことです。
  (…)
   レヴィナスによれば、「善」は「欲求」されるものではなく、「欲望」され
  るものです。
   つまり、私たちが因習的に理解しているように、何を為したらよいのかがあ
  らかじめ分かっていて、そのリストに指示されているとおりにふるまうこと
  (人に親切にするとかものを盗まないとか)を「善」と言うのではありません。
  (内田樹+釈徹宗『インターネット持仏堂2/はじめたばかりの浄土真宗』
   本願寺出版社/2005.3.23.発行 所収「その11 内田から釈先生へ」より)

「聞く耳」をもつためには、「私はそれを知らない」ことを知っている必要がある。
知らなくてもいいと思っていることには、特に聞き耳をたてる必要を感じない。

「そんなこと当然知っているよ」と勝ち誇っているときや、
自分がそれを知らないと思うことさえできないような内容に対するときは、
基本的に「聞き耳」をたてようとすることはないわけである。
前者の場合、ときに、知っているという思いこみで自分の耳は塞がってしまい、
後者の場合、「そんなことなんて自分には関係のないどうでもいいことだ」と
これもまた自分の耳を塞いでしまうことになる。
目と違って、耳は自分で閉ざすことができないはずなのに、
なぜか人の耳というのは、見えない蓋が自在についているらしい。

知りたいけれども、今知らないでいるときに、ひとは聞き耳を立てる。
「それ」が何なのかわからない。
わからないがゆえに、知りたいと切に願う。
つまり、知るためには、知ろうと願うということが必要なのである。
当然のことだけれど、このことは意外に見逃されていることが多いように見える。
だから、自分が知らないことで「問い」へと向かうことができないのである。

では、「私はそれを知らない」ことを知っている、というのはどういうことだろう。
お腹が空いたので食べることで満たされる、
喉が渇いたので水を飲むことで渇きが癒されるようなあり方であれば、
「それ」が何なのかをあらかじめ名指すことが可能である。
そしてそれを具体的に手に入れることで、「欠落」を埋めることができる。
ある情報にしても、「その人って誰だっけ?」という問いであれば、
その名前を調べて思い出すこともできるし、
知らなかった場合は、その名前を新たに記憶することもできる。

しかしそもそも「それ」が何なのか明らかにならないがゆえに、
「欠落」を満たすような仕方では埋められない場合はどうだろう。
欠落を満たすことで埋められる「欲求」ではなく、
どうやって欠落を埋めるかわからないものを求める「欲望」。

レヴィナスの「善」は、たとえば
こうすれば道徳的に正しいとかいうような形で
あらかじめ明確に与えられるような類のものではない。
「欲望」されるものである。
従って、それをどうやって埋めるか人から指示されるようなものではない。

シュタイナー的にいえば「道徳的想像力」によってしか得られない
まさに「自由」に基づいたものであるともいえるかもしれない。
不思議なのは、それが何なのか切に知りたいと願うにもかかわらず、
自分がそれを知らないということしか知ることができないということである。
「それ」を知らないのに欲し、決して埋められてお終いというようなものでは ないもの。

シュタイナーの『自由の哲学』、ひいていえば
神秘学が「読めない」「わからない」という場合の原因のひとつは
おそらく、それを読むことを「欲求」として位置づけるからかのだろう。
「欠落」があってそれを満たすことで、「わかった」「満たされた」というこ とを求める。
しかし、そういう仕方では、いつまでも大きな壁がそこに立ちふさがってしま うことになる。
「神秘学」は「欲望」されることではじめて
その認識プロセスへと参入することが可能なものだといえる。
そうでなければ、いつまでも「ノウハウ」を得ようとするような誤解に向かう だけである。
これは、自己教育を教えてもらうことと取り違えることにも似ている。