風のトポスノート596

 

どうしようもないわたしが歩いている


2007.1.8.

 

    ホープ・レスというのでしょうか、じつは四十代の始めの頃、生きて行く
   のが辛くてしかたなく、死ぬことばかりを考えていた数年間がありました。
   されに、後天的なこととして、立派な人、立派に見せている人への懐疑があ
   ります。というのは、残念なことにどんなに低俗な人でも、立派な服を着る
   ことは出来る。立派なことを言うことは出来る。立派な態度を装うことは出
   来る。メディアを通じて喧伝されている人々の中に、それを嗅ぎ取っている
   人は多いのではないでしょうか。逆説的にいえば、立派を信じて、それに裏
   切られ、傷つくことが怖いのかもしれません。そういうことからすれば、今
   回のテーマである、山頭火もそういう弱さを持って生きてきた、いや生きざ
   るを得なかった人だと思うのです。
   (…)
    山頭火という俳人は、悟るわけではなく、かといって堕ち切るわけでもな
   く、行ったり来たり、跳んだり跳ねたり、決意したり挫折したりの一生を生
   きたのです。表現者は、どこかで自慢をするものです。それは自らの論であ
   ったり知識であったりを披露する。ところが山頭火は、自らの愚を、自らの
   弱さを素直に表現していきます。それは誰もが思い当たる愚であり弱さであ
   ります。
   (中畑貴志「種田山頭火」より P.71/75
    NHK・知るを楽しむ/私のこだわり人物伝 '6/12月-'7/1月)

山頭火の終焉の地、松山市の「一草庵」を
記事型広告の取材のために、カメラマンを連れて訪れたことがある。
25年以上前のことである。
そのときには、山頭火のことはほとんど知らず、
またその後も、しばらくはとくに関心はもたなかったが、
松山在住の芦田容子さんの「山頭火を歌う」という(素晴らしい!)歌を聴き、
それ以降、山頭火や放哉、それから岡山の住宅顕信(すみたく・けんしん)などの
自由律の俳句に興味をもつようになり、
手元にいつもおいておりにふれて読むようになっている。

それらの自由律の俳句の魅力を云々できるほどの
鑑賞力やことばの力をぼくはもっていないが、
「どうしようもないわたしが歩いている」という句のように
「自らの愚を、自らの弱さを素直に表現」したことばが、
それが読むものの深いところに届き、共振するというところが
その魅力のひとつなのだろう。

人にはさまざまな欲望があり、
そのなかでも自分がひとより優れていると思いたい、
少なくとも、ひとからそう見られたいという気持ちは誰しもあって、
それがために、「見栄をはる」。
そのためには、あらゆる道具や手段を惜しまなくなる。
そのままの自分(というのもほんとうは虚構ではあるが)を見られるのをおそれ、
さまざまなもので着飾って擬装する。
ディベートなどといった議論、口論で勝つ、とかいうのもそのひとつで、
なんでもいいから自分のほうが上だとしたがるところがあるように思う。

しかし、「どうしようもないわたし」を自覚し、
その情けなさ、弱さとともに歩まざるをえないとき、
それらさまざまな「見栄」はその光の幻想を照らし出され、
そのままの自分の顔を見ざるをえなくなる。

その顔を見たくないがゆえに、ひとは
ひとつ顔が壊れたら別の顔を、またそれが壊れたら別の顔…、
というように次々と見栄のペルソナでみずからを覆うことを忘れない。
自分の優越を誇れない場合は、代わりに、ほかのひとの光のもとに身を寄せ、
自分もその一部であるかのような幻想で自分を救おうとしたりもする。
じぶんは決して間違ってはいない、間違っていたとしても、
それはじぶんのせいではないのだ・・・といつまでもジタバタとし、
その都度、自分の仮面を厚塗りにしていくばかりである。

親鸞が「愚禿」と自称したように、
みずからの愚かさや弱さに直面することでしか
なにもはじまらないことがある。
山頭火の句を読むと、そうした「どうしようもないわたし」であることを
ともに歩んでくれているような、
そんな安心感(というとおかしいかれど)を得ることができる。

ちょっと違うぞ!といわれるかもしれないけれど、
少なくともぼくは村上春樹からも、同じような安心感を得ることができる。
もちろん村上春樹のそれは、
「どうしようもないわたし」がある種、プラス?に転化したものだ
といったほうがいいかもしれないけれど、
その底には、自分の愚かさや弱さへの自覚があって
それゆえにあの坦々とマラソンを走り続けるような
村上春樹独特の姿勢がでてくるのではないかと勝手に思っている。

『ちょうど、ひとつ、村上さんでやってみるか』(朝日新聞社/2006.11.30.発行)が
でているので、そこから2つほど引いてみる。

   座右の銘というようなものはとくにありません。ただ「腹が立ったら自分に
   あたれ、悔しかったら自分を磨け」というのが、僕のいちばん基本的な考え
   方です。あまりにストレートというか、まんまで、座右の銘というほどのも
   のではありませんが、小説家になってからこの方、ずっとそう思って生きて
   きました。少しは人生の役に立ったと思います。もう少し気のきいた文句が
   あればいいのですが。
   (質問25「座右の銘」よりP.31)
   ただ僕のことはなるべく「先生」とか呼ばないでくださいね。そこまでたい
   した人間ではありませんので。せいぜい利口な犬、くらいの程度のものです。
   利口な犬に負けてしまうところもたくさんあるかもしれません。
   (同上 質問37「揚げたてのドーナッツ」より P.38)
    僕は「あの時代に帰りたい」というようなことはほとんど、というかまっ
   たく思いません。もちろん後悔することがないというわけではありません。
   (…)あなたも「あのころに戻ってもう一度やり直してみたい」というよう
   なことを考えているよりは、今から先のことを前向きに考えてみられてはい
   かがでしょう。これから精一杯やれば、これまでにやり残してきたいろんな
   ことが、まだまだじゅうぶん取り返しがつくのではないですか?
   (同上 質問121「素敵な年齢」より P.98)

なんだか、人はすぐに腹が立ったり悔しかったら人のせいにして、
自分を変えてみようとかもっと先に進もうとか思わないことが多く、
すぐに「先生」になりたがったり、そこそこでごまかしながら
「あの時代に帰りたい」とかいうノスタルジーだけで生きようともするのだけれど、
おそらく、ある種、「ホープ・レス」というか絶望を底まで降りていくこと、
村上春樹風にいえば、井戸の底を掘ってそこにじっと座っていることに
耐えられないがために、そうなってしまうのでないかという気がする。

自分を安易な部分で肯定して後ろ向きになってしまったとき、
ひとはそのことをごまかすためにさまざまなことを考えはじめてしまうのだ。
自分が前に進まないためのさまざまな言い訳を。
そして、さまざまな衣装を身にまとい仮面で重ね塗りにして
人を教え、偉くなり、先生になる。
(もちろん、距離をとるための戦略的な手法としての「先生」はありだけれど)

立ち止まらないために必要なこと。
「どうしようもないわたし」であることを自覚することと、
それでもまだ、たとえとぼとぼとにせよ、ともかく歩くこと。
それ以外にないと思うのだけれど…。