神の裁きが完全であれば、皮肉なことに、人間たちの倫理性は衰微する。 
            なぜなら、人間が倫理的にふるまう努力をしなくても、神の奇跡的介入に 
            よって、人間の世界は倫理的なものになるはずだからである。(…) 
             神が完全管理する世界には善への志向は根づかない。皮肉なことだがそ 
            うなのである。私の外部にある「他者」がまず私の罪を咎め、それに応え 
            て私が有責感を覚知する、というクロノロジックな順序でものごとが進む 
            限り、人間の善性は基礎づけられない。人間の善性を基礎づけるのは、人 
            間自身である。同罪刑法的志向に基づかず、神の力をも借りずに、なお善 
            を行いうるという事実、それが人間の人間性を基礎づけるのである。 
             レヴィナスは「神なき世界」における善の可能性について、短く美しい 
            ことばを書いている。 
            無秩序な世界、善が勝利に至らない世界における犠牲者の立場、それ 
             が受苦である。受苦が神を打ち立てる。救援のためのいかなる顕現をも 
             断念し、十全に有責である人間の成熟をこそ求める神を。 
          (内田樹『他者と死者/ラカンによるレヴィナス』海鳥社/P.267-268) 
        パブロフの犬のようになっている人間の道徳は、人間を成熟させない。 
          ご褒美を前提にした、つまり道徳的に正しいとされることをすれば必ず報われる、 
          というような発想は、むしろ人間を堕落させてしまうことになるだろう。 
          報われたいがための行動を善とは呼べない。 
          利益があるからする行動にふさわしいのは、エゴでしかないだろう。 
        ヨブの試練は、人間を成就させるための寓話としても読むことができる。 
          ヨブはより多くを得るために試練を受けたというのではないだろう。 
          むしろ、神がかくあれという利益誘導型の発想を捨てることがそこでは求められる。 
          いかなる受苦が我が身に襲いかかろうとも、 
          たとえ、神から見捨てられているとさえ思えても、 
          自らが善であると信じることを貫くこと。 
          もちろん、みずからの悪の可能性を排除するという盲信による独善ではなく。 
        レヴィナスの「法ー外」の途方もない倫理。 
          <私>は、たったひとりで不条理と無意味に耐え、有責性に目覚めねばならぬ。 
          それはもちろん、外からの働きかけではなく、みずからの自由によってである。 
        親鸞の悪人正機もその有責性から照射することで、 
          よりその重要性をきわだたせることができるだろう。 
          善人さえも救済されるのだとしたら、 
          悪を自覚した者が救済されないはずはない。 
        いや、さらに進めねばならないだろう。 
          善人だとみずからを見なす者も、悪を自覚した者も、 
          どちらも救済される保証はまるでない。 
          しかし、善人は救済されることを希求し続けるしかないが、 
          みずからの悪を自覚した者は、救済されることさえ求めない。 
          みずからの自覚を深めるということ意外になすすべもないのだ。 
        このなすすべもない自由と自覚が、 
          人間を成熟へと導かないことがあるだろうか。 
          その成熟においてこそ、はじめて外的な律法は意味をなくすだろう。 
      そしてそこに旧約の神から新約の神への変容がある。  |