風のトポスノート594

 

「いいとこどり」の物語の陥穽


2006.12.20.

 

   三善ーー「物語の横糸、縦糸の一本」としての音楽を、たぐってはくれま
   いかということはあります。戦前から僕なりに続いている「一本の筋」の
   ようなものがある……。このごろは、みんな、物語に飢えているというの
   か、いろいろなことがエピソード化してしまっていると思う。責任をもっ
   て筋を追うとか読み取るということをせずに、話が断片化しているんです
   ね。マラソンでも途中の苦しいところや風景などは見ないで、ゴールの華
   やかなところだけ見る。ですから「物語としての筋、縦糸をたぐってみた
   いな」と自分では思っている。
   丘山ーーそれは、ご自身の物語でもあり、また、みんなの物語でもある…。
   三善ーーだって、何もかもフラッシュになっちゃうでしょう?一枚の葉っ
   ぱが変化していくーー緑の五月から逆に四月、三月、二月、一月と、その
   時の流れをたどって初めて、わかるものがある。それが、その時々だけの
   一駒の「フラッシュ」になってしまうと、ね。
   丘山ーー「共震」についてもう一度おたずねしたいのですが、「まなざし
   は一人の人としか交わせない」とおっしゃっています。たとえば私は今、
   この時点では、ここにたくさん人がいても、先生としか、まなざしを交わ
   せない。「手もまた一人の人としか握れない」ともおっしゃっています。
   そのことと、「共震」ーーつまり、共に震える、あらゆる人の心搏の震え
   が聴こえるということとは……。
   三善ーー「一人」の手を握っても、それを通じて「人々」と手を握ってい
   るということもあるでしょう?
   (三善晃・丘山万里子『波のあわいに/見えないものをめぐる対話』
    春秋社/2006.6.25.発行/P.171-172)

「いいとこどり」は、サビだけを切りとった音楽のようなところがある。
文脈やプロセスが見えなくなってしまっていて、
見えないところはなしですませられると思いこんでいたりする。

臓器移植などを生命を救う行為だと信じ込んでしまうのも、
医療行為の多くが、人を全体として見ることができないのと同じで、
なにかが一見、部分だけでも成立できているように見えてしまうと
見えなくても確かにそこにある文脈や関係性は必要ないように思えてしまうのだ。

物語も断片化してしまい、
「物語の横糸、縦糸」によるタペストリーを
自分のなかで織り進んでいこうとしなくなると、
短い時間でくり出されるギャグのような
刹那的な物語しか受け付けなくなる。
しかし、逆にそれゆえに、
人は物語を求め始めているということもできるが、
その際の物語は、与えられたゲームソフトのようなものでしかないだろう。
自分がそこに織り込まれながら
織られていくプロセスとしての物語にはならない。

人と人がまなざしを交わすときにも、
人と人が手をにぎりあうときにも、
相手のまなざしを通じて
あらゆる人のまなざしを見つめていくためには、
相手の手を通じて
あらゆる人の手につながっていくためには、
そこにある物語は、「横糸、縦糸」によって
さまざまに織られたプロセスとしての文様でなければならない。

インターネットによる膨大な情報入手の可能性や
科学技術によるモノのオペレーション技術の可能性が広がるということは、
本来、かつてもっていた物語よりもさらに深く広大に織られた物語が
必要とされるようになっているということができるのだが、
実際は、ますますワンピースに切り取られた物語だけが
「いいとこどり」のように飛び跳ねているように見える。
その時、人は、だれかとまなざしを交わしても、手をにぎっても、
それはそれだけのものでしかなくなってしまう。
いやむしろ、だれともまなざしも交わしていなければ、
手もにぎってはいない、ということにさえなっていはしないだろうか。