風のトポスノート593

 

カデンツ


2006.12.13.

 

   丘山ーー同じ言葉を使っても「話す」ことと「歌う」こととは違う。言語
   にはそれぞれ固有な世界があるけれども、「歌」と一緒に届けられると
   「固有なものから普遍的なものへと道が通る」というようなこともおっし
   ゃっていますが。
   三善ーー音楽に、人は、こと分け以前の、広い意味でのカデンツを響かせ、
   あるいは聴いているんじゃないかな。
   丘山ーー風の本体はどこでも同じで、こう聞こえるとか、ああ聞こえると
   か、表現するとこうだ、ということ以前の風は世界全体がつながって、ど
   こにでも吹いているだろう、ということと同じ?
   三善ーーすごく関係すると思う。子どものとき「雨のやんだ朝でした」と
   いう歌を書いたことがあるのね。ピアノと一緒に「雨のやんだ」という言
   葉から、じっくり時を待って、聴いてピアノをつけて、それで「朝でした」
   というと、子供心にとても満足するんです。その間は、やはり、旋律を聴
   いているんじゃないかな。地球の。あるいは列島の。雨の朝のカデンツと
   いってもいいかもしれないけれども。
   (三善晃・丘山万里子『波のあわいに/見えないものをめぐる対話』
    春秋社/2006.6.25.発行/P.87-88)

言葉ははじめ「歌」だったという話がある。
なぜ「歌」 だったのだろう。

「歌」 は「世界」の一部だったと考えればどうだろう。
まず人間は「世界」から「歌」をとりだしてきた。
それがさまざまに抽象化されて言葉へと変化し、
「世界」を抽象的な断片としてとらえるしかなくなってしまった。

そして人間は「世界」から次第に遠ざかっていき、
「世界」そのものをとらえることが困難になってきた。
従って、「世界」をとらえようと思うならば、
「歌」を取り戻さなければならない。
世界を聴き取るためのカデンツを。

「雨の朝のカデンツ」。
雨降る冬の日のカデンツ。
さわやかな風のカデンツ。
誇らしげな赤い薔薇のカデンツ。
見事な色彩で泳ぐオシドリのカデンツ。
ブリージングをする鯨のカデンツ。
とぼとぼと歩く悲しい気持ちのカデンツ。
胸を熱くする恋のときめきのカデンツ。

それらを歌うことで「普遍的なものへと道」を通じさせることは、
「世界」をとりもどすことにつながるのではないか。
朝が朝になり、花が花になり、柳の緑が柳の緑になる。
そして、私が私になり、世界とつながる。