丘山ーー同じ言葉を使っても「話す」ことと「歌う」こととは違う。言語 
             にはそれぞれ固有な世界があるけれども、「歌」と一緒に届けられると 
             「固有なものから普遍的なものへと道が通る」というようなこともおっし 
             ゃっていますが。 
             三善ーー音楽に、人は、こと分け以前の、広い意味でのカデンツを響かせ、 
             あるいは聴いているんじゃないかな。 
             丘山ーー風の本体はどこでも同じで、こう聞こえるとか、ああ聞こえると 
             か、表現するとこうだ、ということ以前の風は世界全体がつながって、ど 
             こにでも吹いているだろう、ということと同じ? 
             三善ーーすごく関係すると思う。子どものとき「雨のやんだ朝でした」と 
             いう歌を書いたことがあるのね。ピアノと一緒に「雨のやんだ」という言 
             葉から、じっくり時を待って、聴いてピアノをつけて、それで「朝でした」 
             というと、子供心にとても満足するんです。その間は、やはり、旋律を聴 
             いているんじゃないかな。地球の。あるいは列島の。雨の朝のカデンツと 
             いってもいいかもしれないけれども。 
             (三善晃・丘山万里子『波のあわいに/見えないものをめぐる対話』 
              春秋社/2006.6.25.発行/P.87-88) 
        言葉ははじめ「歌」だったという話がある。 
          なぜ「歌」 だったのだろう。 
        「歌」 は「世界」の一部だったと考えればどうだろう。 
          まず人間は「世界」から「歌」をとりだしてきた。 
          それがさまざまに抽象化されて言葉へと変化し、 
          「世界」を抽象的な断片としてとらえるしかなくなってしまった。 
        そして人間は「世界」から次第に遠ざかっていき、 
          「世界」そのものをとらえることが困難になってきた。 
          従って、「世界」をとらえようと思うならば、 
          「歌」を取り戻さなければならない。 
          世界を聴き取るためのカデンツを。 
        「雨の朝のカデンツ」。 
          雨降る冬の日のカデンツ。 
          さわやかな風のカデンツ。 
          誇らしげな赤い薔薇のカデンツ。 
          見事な色彩で泳ぐオシドリのカデンツ。 
          ブリージングをする鯨のカデンツ。 
          とぼとぼと歩く悲しい気持ちのカデンツ。 
          胸を熱くする恋のときめきのカデンツ。 
        それらを歌うことで「普遍的なものへと道」を通じさせることは、 
          「世界」をとりもどすことにつながるのではないか。 
          朝が朝になり、花が花になり、柳の緑が柳の緑になる。 
      そして、私が私になり、世界とつながる。  |