風のトポスノート592

 

コンポーズとプロデュース


2006.12.9.

 

   丘山ーー最近、私が気になっているのは、若い作曲家たちが作曲行為とは
   作品へのコメントなどで「戦略」という言葉を使い始めていることなんで
   す。ここ十年ほどのことだと思うのですが、そのあたりかたどうも、作曲
   がコンポーズではなくてプロデュースになっている気がする。そこでまず、
   作曲とはなんだろう、とか、表現とはなんだろう、という根源のところか
   らお話いただきたいのですが。
   (…)
   三善ーー何のために作曲しているのかな。言い換えるなら、何のために生
   きてるのかな、という気もするんです。そこから演繹するなら、作曲する
   ということは、やはり、生きているということと関わることなのかな、と
   思う。その「生きている」というのは何さ、と訊かれると少し困る。とて
   も入り組んで、矛盾もしていることで、ひと言ではとても言えないのです
   けれども……。でも、僕は矛盾をすべて清算して、きれいに整合した存在
   になろうとは思っていない。矛盾を矛盾として引き受けることが、もしか
   すると生きるということにつながっていくかもしれない。
   (…)
   三善ーー「戦略」とか「路線」とか言っているグループには「不足」の感
   情がない。(…)すでに世の中というか、世界は「足りている」。その上
   に何かを付け足すとか、何かいいことをうあってみようとか、ということ
   になるから、僕がそうあったようには「差し迫ってはいない」んです。で
   も、だからなおさら、選ばなくてはならなくなってきているのかもしれま
   せん。……そこでは確かに、情報を選択することがすごく必要になってく
   るんじゃないかな。
   (…)
   三善ーー情報の「使い手」のほうに(…)「責任」もないんですね。常に
   与えられているわけで、責任は情報の質料や存否にかかっている。常に自
   分は受け手でしかありませんから。
   丘山ーー「選択」と「組み合わせ」という……。
   (三善晃・丘山万里子『波のあわいに/見えないものをめぐる対話』
    春秋社/2006.6.25.発行/P.3-19)

何のために生きているのか。
物心ついてから何度その問いを繰り返し自分に投げかけてきたことだろうか。

世慣れた人にとっては、あまりに青臭い問いかもしれないけれど、
若くして成功した人がときにその後の自らの道を見失いかねないように、
世界の億万長者が、財産をあらかた寄付することになるように、
人生の最初期にみずからに問いかけた大問題は、
生きているあいだ、決して消えないまま水脈として流れ続け、
人生の最後期にも、またその問いが浮上してくることは避けられないように思える。

コンポーズとプロデュースの違いということで、
ここで示唆されているものは、その問題に深く関わっているのではないか。

なにかを戦略的に組み立てて、実行し、その成果をあげるという
プロデュース的なあり方には、たしかに成功かそうでないかという発想はあるが、
最初から世界に「不足」しているなにものかという感情はないのだろう。
広告の仕事をしていると、常にその「戦略」という視点、
プロデュース的なあり方が最重要になる。
その商品を売るためにはどのような広告戦略が必要か。
キャンペーンを成功させるための「届く」コンセプトをどう構築するか。
しかしそれらの枠組みは、世界にすでにあるものを
どう編集し組み合わせて効率的に届けるか、交流させるかという視点を超えない。

ぼくはポエジー、そしてポイエーシスという
とくに芸術において発現されるなにものかを
こうして生きていくうえでもっとも重要だと考えているが、
それは、プロデュース的なあり方ではまったく可能ではないなにかである。

ときに、芸術の多くは、あまりにプロデュース的なものに満ちすぎていて、
それを芸術と呼ぶのはあまりじゃないかとさえ思えることが多いのだけれど、
ポエジー、ポイエーシスとしての芸術は、まさにコンポーズと通底しているなにか、
そこにはつねに、いま世界にないもののこと、不足しているもの、
ゆえに、その不足をみずからの内で痛感し生み出さざるを得ないものが焦点になる。

何のために生きているのか。
今世界にあるものを得たり組み合わせたりすことだけでは、
今自分がここに生きているという必然はあまりに貧しい。
知る、知りたいということも、
既に知られていることを知るのではあまりに貧しい。
それは受験問題集のようなものでしかない。
すでに答えのあるものを正解するだけの世界。
いくら賢いクイズ解答者になったところで、
そしてそのことをみんなから褒められたところで、
マシーンになる喜びはあまりに刹那的である。
そこには何も「不足」がないがゆえに、
みずからに「不足」を呼び起こし
そこに新たななにものかをつくりだす喜びはないだろう。

何のために生きているのか。
まさに、コンポーズなのだろう。
もちろん作曲だけのこというのではなく、もっと広義のコンポーズ。
受け手ではなく、作り手としてのコンポーズ。
それは、みずからに「不足」を呼び起こすことが起点になるがゆえに、
世界に矛盾を生み出す行為だということもできるかもしれない。

何のために生きているのか。
世界に不足を生み出すために、矛盾を生み出すために生きている…。
しかし、それはたんなる恣意的ななにものかであるのでは
すぐれたコンポーズだとはいえないだろう。
常に「差し迫った」なにものかによって
みずからのうちに矛盾を渦巻かせ、差異を喚起し、
そうして「無」から何かを召還することでもなくてはならない。
それは、与えられるのではなく、与えること。
だれが受け取るのでもないとしても、それを世界が受け取るもの。