風のトポスノート591

 

死を思いとどまらせる言葉


2006.11.15.

 

   最近、いじめによる自殺が問題になっている。
   (…)
   死を予告してきた子どもに、
   どんな言葉がとどくのだろう。
   とどかない言葉ならすぐ浮かぶ。

   ひとつは、
   「命を大切にしろ。」
   ひとつは、
   「生きたくても生きられない人もいるのに……」
   ひとつは、
   「おとなになれば今の苦しみなんて……」

   もっと不幸な人を思いなさい。
   ――人を元気にしようとして、
   私もつい使ってしまう手口だ。

   普遍の真実も、
   対岸からのもの言いも、より不幸な人を思えも、
   相手が大事だからこそ、言うのであって、
   言う方はほんとうに一生懸命で、
   それを考えると切ないのだけれど、
   どれも極端に言うと、
   「あんた間違っている」につながってしまう。
   (…)
   人は、はっきり言われる「おまえはだめだ」より、
   相手の言動から無意識に感じとれてしまう、
   「おまえはだめだ」のほうに、深く傷つく。

  (山田ズーニー 『おとなの小論文教室。 』
   Lesson325 死を思いとどまらせる言葉1
  「ほぼ日刊イトイ新聞」2006-11-15-WED)

死を予告してくるということは、
ただ死にたがっているというのではなく、
むしろ死なないですむわずかばかりの方法(希望)を
求めているといってもいいのではないか。
そうでないとしたら、
予告などしないでただ死んでいくだけだろうから。

しかし、そのとき
「べき」は届かない。
届かないどころか絶望を増幅させてしまうことになる。
「べき」はそれができないと思っている人に
ダメだしをしているようなものである。

なぜ死のうとするのだろうか。
その問いを逆説的に考えてみる。
なぜ死にもしないで生きようとしているのだろうか。
その問いを自分にぶつけてみる。

すると、その理由が
「命を大切に」しているからでも、
「生きたくても生きられない人もいる」からでも、
もっと苦しんでも生きている人がいるから、でもないことは
だれにいわれないでもわかるだろう。

公共広告機構のキャンペーンコピーで
「あなたが必要だ」というのがあった。
必要なのは「べき」ではなく、
必要とされていることだというのがコンセプトだろう。
これは、おそらくマザー・テレサが
ただ絶望と無気力のうちに死んでいこうとする人に、
「あなたは必要とされている」と語りかけたことに
ヒントを得たものだろう。

「あなたはだめだ」というのはその対極にある。
ぼくがなぜ死にもしないで生きようとしているのかを考えると、
「あなたはだめだ」と言われて(言われないとしてもそう受け取って)も
それに完全に負けてしまわないなにかを
かろうじてもっているからだといえるだろうと思っている。

では、なぜ「あなたはだめだ」に対して
死へと向かう衝動をもってしまうのだろうか。
その「あなた」、つまりその人の自我が
あまりにも弱いまま自分で垂直に立っていないからかもしれない。
自分で立っていないということは、
なんらかのもので立たせてもらっているということである。

人はまず肉体として最初に生まれるが、
その後、7年ごとにエーテル体、アストラル体、自我が生まれる
というのがシュタイナーの視点だが、
自我が生まれる(機能する)ようになる前は、
それを何重にもサポートしえるなんらかの環境が必要である。

大人になっても自分で立てないひとのなかには、
薬物依存(ドラッグだけではなく広い意味での薬的なものへの依存)なくしては
生きていられないという人もいて、それがどんどん増加しているという。
「宗教は阿片である」という名言にもあるように
信仰をもつことによってサポートを受けるという人もいる。

死のうとする子どもたちがふえているというのは、
大人のレベルで自我の不全に至っている世代が複数重なり
その影響がここにきて臨界点に達しているのだということもあるのかもしれない。
子どもは大人を模倣する、その連鎖である。
そしてそこに食べ物やテレビやゲームなどの生活環境が加わって、
そんななかで「自殺」さえもブームの連鎖のなかに入ってしまう。

「弱さ」だとひとことでいうのはたやすいが、
少なくともその「弱さ」のもとになっているものを見ないで、
「べき」の類の言葉で対処しようとするのは、あまりにも貧しい。