風のトポスノート590

 

「過程」としての人間


2006.10.21.

 

   「夢の文法」とは、「きれいときたない」「大きいと小さい」「幸運と不運」
  「Aと非A」が同じひとつのもののうちに輻輳し、時間が逆流するような世界を
  叙するための文法である。
   だが、どうしてそのような文法が存在し、わたしたちは夜ごとその文法で叙さ
  された世界を生きるのか?それは「わたしたちはどうして物語を読んで倦まない
  のか?」という問いとおそらく同根のものである。
   わたしはこの問いに対して、ひとつしか答えを思いつくことができない。
  それは、「夢の文法」で叙された世界から、それとは違う文法で叙された世界へ
  のシフトを日ごと繰り返すことによって、人間はそのつど人間として再生すると
  いう仮説である。人間性とは、そのつど新たにおのれを人間として構築すること
  ができる能力のことであるという仮説である。
  (・・・)
   人間がそのつどおのれを新たに人間として構築するシステムというのは、おそ
  らくは、時間が経過するにつれてますます多くの無秩序と世界の汚れを不可逆的
  に生み出していく「熱いシステム」ではなく、一巡すると初期条件に回帰する
  「冷たいシステム」であるのではないだろうか?
   そこではいったん秩序が破綻して、混沌が生じ、それが復旧されて、秩序が再
  構築されるというプロセスが永遠に繰り返される。それは、おそらく、人間は、
  混沌から秩序へ、破壊から再生へ、夢から覚醒へ、という循環的歴程を毎日のよ
  うに繰り返すことで、おのれが何ものであるかを知ることができるからである。
  (・・・)
   おのれを人間として構築せんとする人間的志向を根源的に基礎づけるのは、
  「人間になれ」という天上的命令でも、「人間とはかくかくのものである」とい
  う実定的なモデルでもなく、おのれがそれになるべき「人間」を(いまだ知らな
  い時点で)時間の順序を狂わせて先取りしうることそれ自体なのである。
   これは自分自身の髪の毛をつかんで自分を中空に引き上げる奇術に似ている。
  (・・・)
   進むべき道を知らないわたしを、旅程を熟知したわたしが領導し、「現在のわ
  たし」に「未来のわたし」が進むべき道を教える。この背理に耐えることが、つ
  まり、ひとりの人間のうちに「いまだ人間ならざるもの」と「すでに人間である
  ことを完了したもの」が無矛盾的に同居していることが、人間が「過程」である
  ためには論理的に不可避なのである。
  (内田樹『死と身体/コミュニケーションの磁場』
   医学書院 2004.10.1.発行 P.32-38)

あらかじめ設計図が描かれていて
それに従ってこの世を生きているという状態は、
おそらく「人間」であるとはいえない。
そのことを、宿命を生きるのではなく立命を生きる、
ということで表現することもできるだろうが、
人間であるということには「自由」が深く関わっているのだといえる。

自由であること、いやむしろ自由であろうとするということは、
自分で自分を人間として生成させていこうとするというプロセスなのである。

そのためにおそらく私たちはひとつの世界だけに生きていることを選ばなかった。
私たちは日々、霊的世界とこの地上世界を往還しながら生きているのである。
(とはいうもののすべてが霊的世界であるともいえるのだが)

この地上世界では、物質的な制約のもとに生きざるえをえない。
何かを変えるためには、まず思いをもちながら、思うだけではなく、
手足を使って物理的な運動に変え、世界を動かしていかなければならない。
自分の身体を動かすというのもそのひとつである。

そうした諸条件のために、私たちは
「きれいときたない」「大きいと小さい」「幸運と不運」「Aと非A」というふうに
同じベクトル上にあるものの両極を分けることを必要としてしまう。
老子が、美を認めるから悪(醜の意)が生まれ、善を認めるから不善が生まれ、
長を認めるから短が生まれ、高を認めるから低が生まれる、と言ったように。

古代エジプト語のkenは、もともと強いと弱いという二つの意味を
ラテン語のaltusは、高いと低い、
英語のwithは「それとともに」と「それなしに」という二つの意味を
持っていたというが、
古い言葉では、そうした対立的な意味を同時にもっていたものが多いようである。

古代においてはおそらく霊的世界と地上世界の距離は今ほど離れていず、
地上における言葉の成立も霊的世界の原理を反映していたともいえるかもしれない。
ゆえに、対立するものはひとつのもとからでているということを表現していたと。
しかし、地上世界が霊的世界からの独立性を高めるにしたがって、
対立するものの根源は見失われ対立が対立として認められるようになった。
そしてそれが必要だったといえるのかもしれない。
そうでなければ、地上を生き、変革することができなかった…。

私たちは、みずからを創造するために、
この地上に下ったといえないだろうか。
みずからを創造するためには自由であることを必要とし、
まるで「自分自身の髪の毛をつかんで自分を中空に引き上げる」ようにして、
みずからを「過程(プロセス)」として変化させていかなければならない。
みずからを設計しながら同時に建築していくという営為。
そのために必要なのが、霊的世界とこの地上世界の往還なのではないか。
地上世界は時間の進む世界であり霊的世界は時間の逆行可能な世界でもある。
ゆえに、みずからを設計しつつみずからの手足で歩みつつまた設計し…、
というプロセスそのものとして生きるということが可能となる。
そうしたプロセスを生きることそのものを「人間」としてとらえたいと思う。