風のトポスノート589

 

情緒の豊かさ


2006.10.20

 

   人間の感情は喜怒哀楽と言います。しかし実際には、そんなにきちんとしたセ
  グメントに分かれているわけではない。人間の感情なんて、アナログな連続体な
  んですから、どこで「喜び」が終わって、どこから「愉しさ」が始まるかなんて、
  誰にも言えない。どこで「怒り」が「恨み」に転化するかなんてことに客観的な
  指標があるはずありません。
   だから、逆に言えば、この感情のカオス的でアモルファスなかたまりにどんど
  ん切れ目を入れて、ある感情とある感情の中間地帯に名前をつけていけば、理論
  的には感情は無限に割ることができるということになります。
  (…)
   感情を表わす語彙がひとつ増えると、表情がひとつ増え、身体表現がひとつ増
  える……。そうやって、人間の身体は割れて、緻密化していく。
   思春期というのは、とにかく感情をどんどん割っていかないと「やっていけな
  い」時期なんです。「自分の気持ちを乗せることのできる、『もっとあいまいな
  表現』はないか?」というのが、思春期の言語への取り組みの基本姿勢なんです
  から。
  (…)
   使える記号がそうやって一つひとつ増えていくということは、逆からいうと、
  相手の微妙な表情や音調から、かなりデリケートなその心理状態についても想像
  が届くようになるということですね。おたがいに送受信できる身体のメッセージ
  の種類がだんだん増えていく。
  「情緒の豊かさ」というのは、そういうことです。分節できる感情表現の種類が
  多いということです。「情緒」というものは、ごくごく散文的に言ってしまえば、
  語彙、表情、発声、身体操作として、どれくらいの種類のものを使い分けできる
  かということに尽きてしまうのです。 
  (内田樹『死と身体/コミュニケーションの磁場』
   医学書院 2004.10.1.発行 P.107-108)

「分かる」という知的な営みは、「分ける」ことで進んでいく。
それと同様に、「感じる」という感覚的・感情的な営みも、
それをどれだけ分節し得るかということによって豊かになっていくのだろう。

したがって、たんに感情的であるということは
むしろ感情の貧しさを意味していることはいうまでもない。
喜怒哀楽をはっきりあらわしてそれで満足?しているような
あまりにニュアンスのないあり方は、
一見、感情が豊かであるかのように見えるとしても、
実際のところ、複雑さを可能にしない単純さ以外の何者でもない。
真の深い単純さというのは、そこに無限の複雑さを内包しているはずだから。

内田樹は、思春期において、
その感情を割っていく作業の苦しさを放棄することによって、
画一的なもののなかに逃げ込んでしまうということは
幼児期への退行であるといっている。
退行することで人は単純明快になり、
そこに複雑なニュアンスを許容することはなくなる。
そして、単細胞生物が多細胞生物になれないように、
精神的に、もちろん身体性という意味でも、成長が止まってしまう。
苦しくても精神的身体的危機を乗り越えていくことでしか
成長していくことはできないのである。

ぼく自身のことをいえば、中学生から高校生の頃にとくに
「精神的身体的危機」を乗り越えるべく七転八倒をしていたように思うが、
少なくとも、だれかのまねをしたりスタイルを踏襲しようとすることで
そこから逃れようとすることだけはしなかったように思う。
ぼくはぼくであって、そのためには、自分の少しでも納得のいく
考え方や表現をもとめて、「分節」を増やしていったわけである。
そして危機的な状態を過ぎても、その「分節」を増やすことをやめずに
今に至っているように思える。
たとえ、その結果、かなり変な大人になっているとはいえるとしても、
少なくとも、ある種の複雑さを許容する能力は身につけることができるように
なったのではないかと思っているのだが・・・果たして。