風のトポスノート588

 

進歩と反進歩から


2006.10.20

 

   アーミッシュの歴史は、宗教改革が起きた十六世紀初めまでさかのぼり、
  もう一度聖書の中の質素な信仰生活に戻ってゆこうとした、当時の人々が
  その始まりです。そして今でもその考え方を綿々と受けついできた人びと
  が、自分たちだけの共同体をもって生きているのです。テクノロジーに対
  して極めて懐疑的で、今日でも基本的には電気を使わず、現代文明とは無
  縁な生活をしています。(…)
   アメリカという近代文明の粋を集めた国で、人間の歴史と逆行するよう
  な社会をつくりあげている人びとの存在が、以前から不思議でなりません
  でした。言いかえれば、進歩というものに徹底して注意を向ける人びとの
  存在です。
  (星野道夫『旅をする木』文春文庫/P.59-60)

進歩することはいいいことだという考え方がある。
その考え方に対してさまざまな実際例を持ち出すことはむずかしくない。
便利になるとかいうのもそのひとつである。
しかしそれに対してなぜ便利になったほうがいいのかという問いが出されるだろう。
そしてそれに対してもさまざまな実際例を挙げて根拠にすることもできる。

医療が発達して、生命を救うことができる、とかいうこともあるだろう。
もちろんそのままでは死んでしまいかねない命を救えれば幸いではある。
臓器移植にしても、人を救って何が悪い!といわれれば、
それに対して面と向かって反論するのは具合が悪そうなところもある。
だから、臓器移植はダメだとはいいいがたく、
さまざまな条件づけをして折り合おうとしたりもする。

むしろ現代では、進歩そのものを無条件に肯定するというのではなく、
さまざまな暫定的な保留(ブレーキ)をつけながら、
「持続可能な社会」という指標のもとに、目先のそれではなく、
より総合的な観点から進歩を見ていこうという方向が出始めている。
もちろん、「総合的」といっても、それ以前の破壊的なまでの進歩主義に比べて、
ということに過ぎないことは常に意識しておく必要があるだろう。

そして、進歩を拒否する考え方もある。
進歩だとして逆行していく態度もある。
宗教の多くも、叡智の源泉を過去に置こうとする向きは多い。
そうした方向性を必ずしも否定することはできないように思える。
時間が直線的に流れていくというとらえ方にしても、
それだけが時間の本質ではありえないのも確かである。

そんなことをつらつら考えてみていくうちにたどり着くのは、
いつもながらの問い、世界はなぜあるのだろう、
自分はなぜ存在しているのだろう、という問いである。
そして、世界はどうあるのが自分にとって納得できるのか、
自分がどうあるのが納得できるのか、ということでもある。

そうしてたどりつくのはこうした考えである。
世界は世界そのものが自己認識をするために
進歩やその反対のものを利用しながら遊んでいる。
だから、進歩することも、また進歩を拒否することも
その遊びのひとつである。
私もまたそうした世界の自己認識のなかで、
また世界の一部として、自己認識をしようと遊んでいる。
そしてそうした自己認識のプロセスこそが
その遊戯の豊かな創造物となり、
世界は完全でありながら、その意味で進化していくということができるだろう。

ただ世界はあまりに懐が深く、故にかつ浅く、
マクロからミクロまでさまざまにその遊戯を展開していく。
その意味でいえば、遊戯をするぼく自身の時間感覚のスパンが、
非常な苦しみのなかに置かれることもあり、
ときに死し、ときに病に倒れ…ということもあるわけで、
苦しみの遊戯はなかなかにキツく、
悪態をつくという遊戯さえもしないわけにはいかなくなる。
まったくもって、世界はかぎりなく悪趣味なまでに豊かなわけである。