風のトポスノート586

 

啓蒙の原点


2006.9.9

 

 啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から
抜け出ることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自
分の理性を使うことができないということである。人間が未成年の
状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がない
と、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。だから人
間はみずからの責任において、未成年の状態にとどまっていること
になる。こうして啓蒙の標語とでもいうものがあるとすれば、それ
は「知る勇気をもて」だ。すなわち「自分の理性を使う勇気をもて」
ということだ。
(カント『啓蒙とは何か』光文社古典新訳文庫/中山元訳 P.10)

光文社から「古典新訳文庫」が創刊された。
創刊にあたって新訳されたのは、シェイクスピア、ツルゲーネフ、
サン=テグジュペリ、バタイユ、ケストナー、ドストエフスキー、
ロダーリ、そしてこのカントである。
そして、すべて新訳で、目を通した範囲でいえば、生き生きとした言葉で素晴らしい。
また、表紙の装画が望月通陽というのもうれしい。
装丁は講談社学術文庫のような質感がありしかも価格は低く抑えられている。

学生の頃、「古典」ときくと、アンチの気持ちが強くて、
読まないのが古典だ、というような感覚が強かったように思う。
けれど最近になって、読まないでいた古典の数々に惹かれ、
目を通すことも多くなってきている。
やはり現代にまで生き残ってきたさまざまな著作は、
歴史的に読者に錬磨されることで生き残ってきたこともあって、
それらが現代に生きていることを実感し、
思ってもみなかった新鮮な驚きを味わえることがある。

さて、そういえばカントを学生時代以来まとまって読んでいないことに、
この文庫を読み始めて気づかされた。
「啓蒙」というと、その言葉そのものは、いまだに少し抵抗もなくはないし、
上記引用のように、単純にとらえるのもどうかという側面はあるものの、
「他人の指示を仰がない」で、自分で考えるという原則は、
あらためてきっちりと受け止めなおすことが必要なのではないかと思う。

シュタイナーの『自由の哲学』も、この延長線上にある部分が多い。
『自由の哲学』では、カントが認識に限界を設けていることを
むしろ批判しているものの、ある意味、カントの論じていることを
批判的に継承している部分はしっかり見ておく必要があるように思う。
この『啓蒙とは何か』で述べられている次の「自由」についてのこともそうである。

個人が独力で歩み始めるのはきわめて困難なことだが、公衆がみず
からを啓蒙することは可能なのである。そして自由を与えさえすれ
ば、公衆が未成年状態から抜け出すのは、ほとんど避けられないこ
となのである。
・・・
公衆を啓蒙するには、自由がありさえすればよいのだ。しかも自由
のうちでもっとも無害な自由、すなわち自分の理性をあらゆるとこ
ろで公的に使用する自由でさえあればよいのだ。

シュタイナーが教育を重視しているのは、
「未成年状態から抜け出」し、「自由」を獲得する基盤づくりであるともいえる。
「理性」という言葉も、現代でははなはだ居心地のわるい印象もあるけれど、
その原則的な部分をしっかり受け止められないというところに
現代の大きな病があるのではないだろうか。
近代合理主義的な意味ではなく、いわば「野生の思考」の領域にまで、
「理性」を拡張していく必要があるのだろうと思う。
そして、それをしっかりと働かせるために必要なのは、
「自由」をおそれないということである。

今日(2006.9.9)の朝日新聞朝刊に
ノーマン・メーラーへのインタビューが載っている。

ー9.11以降、星条旗に違和感を覚えるようになったそうですね。
私の見るところでは、その国が全体主義的になればなるほど、国旗
への愛情に執着するようだ。

「未成年状態から抜け出」すのではなく、
「未成年状態」以前に退行しようとする傾向が、
おそらくは、「全体主義的」な傾向を促進させることになるのだろう。
「他人の指示を仰」ぐときの「他人」に、
権威ある全体をもってくるということである。
それは、啓蒙、自由への恐れである。

もちろん、繰り返しになるが、啓蒙、自由を単なる近代の理性主義としてではなく、
それを現代及び近未来の課題を踏まえて拡張させてとらえなおしてみることが、
今はとても大切な時期になってきているように思う。
そしてその意味でも、こうして「古典」を新しい言葉で読み直してみることは
とても大切なことだと痛切に思う。