風のトポスノート583

 

「わかった」の陥穽


2006.8.17

 

 私たちは、この本の中で取り上げた思想家たちについては、できる限り
わかりやすい解説をしているし、学術ツールの「使い方」についても、ほ
とんど手取り足取り的なマニュアルを付した。けれども、それは必ずしも、
ここで紹介した思想家たちの考想をみなさんに「わかっていただきたい」
からではない。
 現に、読者のみなさんに「この本を読んで、これまでわからなかったこ
とが、よくわかりました」と言われると、何となく疚しさを私は感じてし
まう。たしかに、書いた人間としては「わかった」と言われて、うれしく
ないはずはないのだけれど、それでも、「ちょっと、待ってね」と言いた
くなるのである。それは、「わかった」というのが、知的活動の成就のし
るしというよりは、知的活動が停止したしるしだからである。
「キミの言いたことは、よくわかった」というのは、ふつうはコミュニケ
ーションを打ち切るためのことばである。私たちがコミュニケーションの
現場でほんとうに聴きたがっていることばは「はい、よくわかりました」
ではない。そうではなくて、「すみません。もうちょっとくわしく話して
もらえますか?」である。それは恋人同士の会話を想像してみれば、よく
わかる。私たちが愛する人から聴きたいことばは、「あなたのすべてを理
解した」ではなく、「もっとあなたを理解したい」である。コミュニケー
ションを継続する促しのことば、さらに語り続けることを励起するような
問いかけのことば、私たちはそのようなことばをもっとも強く欲望してい
る。
 本についても同じことだと思う。
 私たちはこの本の中に、私たちまだ少年だったときに私たちの知的渇望
をかきたてた「謎のフレーズ」をいくつか並べて見せた。中には、かなり
単純化した解釈を施しても見せたものもある。でも、それはその解釈で
「解釈を終わらせる」ためではむろんない。そうではなくて、読者の中に
「そんなわかりやすく書いていいんですか、ほんとに?」という懐疑を挑
発するためなのである。
 その懐疑から、みなさんのパフォーマンスは開始されるはずである。
(難波江和英・内田樹『現代思想のパフォーマンス』光文社新書/P.429-430)

以前、こういう質問を受けたことがある。
たしか、神秘学遊戯団のHPにも登録してある「カルマの開示を読む」だったと思うが、
「こういうまとめのようなものをつくるのはどうなんでしょうか?」
という内容の質問である。

たしかに、まとめのようなものは蛇足で、各自が読めばいい。
だから、そのまとめを読むことで、わかった気になるのはまずい。
つくったぼく本人もふくめて、そのまとめは、
もっと理解したくなるようなものとして働かないと意味がなくなる。
まして、用語をわかったふうに説明したり、
図式化してしまうようなことは避ける必要がある。
その意味でいえば、いろいろ書いてみているまとめのようなものやノートの類は、
「わかってもらう」ということを目的としてはいない。
「わからなくしよう」とは少なくとも思ってはいないのだけれど、
できれば「もっと理解したい」と思っていただければうれしい。

上記の引用に適切な例があるが、
恋しているということは、相手のことがよくわかったということではない。
謎がさらに深まり、もっと知りたいということである。
シュタイナーの示唆している内容は、まさに永遠の恋人のようで、
「もっと理解したい」ということが終わることがない。
少なくともぼくにとってはそうである。

わかりやすさというのは、わかった気持ちにつながりやすい。
わかることというのは、結果でも結論でもなく、
もっとわかりたいということにつながったり、
そこからさまざまな謎や問いが生まれてくるための窓口なのである。

シュタイナーに限らず、さまざまな入門書や解説書などの大半は、そういう窓口としては
あまり適切なものであるとはいいががたいものが多いが、
ときに恋する気持ちをかきたてくれるようなものが見つかるととてもうれしい。
自分でも、そういうノートなどを少しでも書ければと思っているのだけれど、
なかなかそういう芸当ができないというのが残念である。
少なくとも、そういう気持ちだけはいつも持っていたいと思っているのだけれど…。