「わかりやすいもの」がもてはやされている。 
        複雑なものを複雑なままにわかりあうのは、面倒だ。 
        「Aという前提のもとに、 
         BとCは対立の立場にあります。 
         BとCの上位概念にくるのがDで……」 
        なんて、やられたら、頭がこんがらがって、 
        「だれかわかりやすく説明して!」と叫びたくなる。 
        そこでとびつきたくなるのは単文だ。 
        でも、単文にしたら意味までが変わってくることがある。 
        やっぱり、Aという前提を共有し、 
        BとC、そしてDの位置関係を頭にいれておかなければ、 
        その先、どーしても、理解できないことだってある。 
        (・・・) 
        複雑だけど大切な話を、複雑なままに理解する力を 
        鍛えるべきときに鍛えておかなかったら、 
        そこで、とびつくのは、単文。 
        わかりやすい単文。 
        印象的なワンフレーズ。 
        そこにのみ反応し、わかりがたい、けれど大切なものを 
        私たちは、見逃してしまうかもしれない。 
        (山田ズーニー『おとなの小論文教室』 
         Lesson310 単文コミュニケーション社会 
         http://www.1101.com/essay/2006-08-02.html) 
               わかりやすいことが悪いことではない。 
          わかりやすいことをわざわざむずかしくする必要はない。 
          これは前提である。 
        しかし、わかりやすいことは世の中に多くはない。 
          少しでもなにかをきちんと考えようとすれば、 
          たいていのことはある種の複雑さを抱え込んでしまう。 
          しかも、世の中のことは、たいていそのなかに、 
          さまざまな矛盾を現実的な矛盾を抱え込んでいる。 
          その矛盾を矛盾としてきちんと理解するためにも、 
          複雑な事象をある程度複雑なままに理解できる能力が不可欠である。 
          そして、その能力は放っておいて育つものでは決してない。 
        したがって、どうしても複雑なものは嫌われて、 
          さかりやすさのほうに流れてしまうことになりがちである。 
          その場合、上記にあるように、「わかりやすい単文」や 
          「印象的なワンフレーズ」だけで条件反射してしまうことになる。 
        ABCDという4つのファクターでとりあえず表現される内容で、 
          たとえば、Aが前提であり、Bが結論だとしても、 
          その間に、Cが前提とした場合にDであるとすれば、という条件がある場合でも、 
          「わかりやすい単文」でしか理解できないと、 
          「Cが前提とした場合にDであるとすれば」が抜け落ちて、 
          「AだからBなんだ!」しか理解できなくなる。 
          まして、「印象的なワンフレーズ」だけに条件反射すると、 
          「Bなんだ!」だけしか入力されない。 
          とんだことであるが、そのとんだことが実際はかなり多い。 
        ごく単純にいえば、「お金があったら、それを買う」の 
          「お金があったら」が伝わらないということだ。 
          そのなかに、「あの人に頼んで貸してもらうことで」という条件があっても、 
          そんなことは伝わらず、「それを買う」しか伝わらなかったら、 
          それをきいた「印象的なワンフレーズ」人種は、「買うっていったじゃないか!」となる。 
          だから「お金があったら」といっただろ、とか 
          「しかも貸してもらえれば」っていっただろ、とかいってもダメなのである。 
          もちろん、ここまで単純な内容であればそこまではむずかしくないとしても、 
          内容の抽象度がが少しでもあがってくると、ほんとうに伝わらない。 
      ほんとうに笑い話にはならないことも多いのである。  |