風のトポスノート581

 

「知る」の回心


2006.6.29

 

 若いときは、やはり何でも知りたかったし、知らぬことを恥じ、聞きか
じった僅かな知識を風船のように膨らませては知ったかぶりの技術を磨い
てきた。が、当然ながら歳をとるほどに知ったかぶりの風船はしだいにし
ぼんで効力を失ってくる。そればかりか、若いときには笑われて済んだこ
とも、今は、
「え?そんなことも知らないの?」
 という恐ろしい一言で問い詰められてしまう。知ったかぶりは若さの特
権であって、若さゆえの荒技だったのだと、こっぴどく思い知らされる。
その思い知らされた瞬間が人生の後半の始まりで、思えば本当のことなど
何ひとつ知らずに来てしまったと呆然となる。
 いや、呆然とすることもままならない。
 地球がひと回りするたび、膨大な情報と新たな知識が、「そんなことも
知らないの?」と言いながら次々追いかけてくる。
 え?知らないの?え?知らないの?え?知らないの?
(吉田篤弘・文/フジモトマサル・絵『という、はなし』筑摩書房/P.10-11)

知りたい!!という欲求が小さい頃から強くあって、それは今でも変わらない。
わずかながら日々本を読む機会をもつのも、
その、知りたい!ということからくることが多い。

けれど、知りたい!の「知る」にも
ある意味でのコペルニクス的展開(ぐれん!という転回もしくは回心)があって、
自分がいかに知らないかを知る前と後、
「汝自身を知れ!」というふうに知が智のほうこうに向かう前と後、
とでは、ある意味、まるっきり知りたい!の質が変わってしまうはずだ。

「知ったかぶり!」というのはもちろん「前」であって、
いまだに「賢く見られたい」というのはなくなったわけではないけれど
(少なくとも、ひとからデクノボーとはあまり呼ばれたくはない。
とはいえ、最近ではどうも、デクノボーもいいかなという気分ではある)
世の中にあふれている「膨大な情報と新たな知識」の前で、
無気力を感じてしまうようなことは少なくともないし、
鎧のようにそういうものをまといたいとも(面倒なので)あまりない。

え?知らないの?
に対しては、
はい、知りません。
あなたは何をご存知なのですか、教えてください。
そう答えればいい。
教えてくれればモウケモノだし、
もし相手がシッタカブリでほんとうは知らなかったとしても、
それが必要な知識であれば、それをきっかけにいっしょに求めればいい。
尊敬されたとしても、そんなに得をするわけでもないし、
バカにされたからといっても、そんなに損をするわけでもない。
仕事上では、仕事を安心してまかせてもらうために、
賢そうな演出が必要なシチュエーションはあるけれど。

でも、知りたい!!という欲求はますます大きくて、
知りたいけれど知らないことは毎日ふえている。
そして、ひとから笑われるのはかまわないけれど、
自分で自分を笑ってしまうことはどんどんふえる。
情けないんだけれど、そいうナサケナサというのもいいものだ。