風のトポスノート580

 


2006.6.22

 

 毎朝、世界各地の無数の人たちが目を覚ますとすぐに、インターネ ットで株価の
動きを調べるか、新聞の経済欄に目を通すか、テレビをつけて経済ニ ュース番組を
みる。これら三つを欠かさず行なう人もいる。それが終わってようや く、朝食をと
ろうと考える。
 金利の最新の動きや、投資ポートフォリオの価格変動を自動的に知 らせてくれる
のであれば、マイクロチップを脳に埋め込みたいと考えている人もい るはずだ。実
際にそうする人があらわれる日もそう遠くないだろう。
(アルビン・トフラー/ハイジ・トフラー『富の未来(上)』講談社 2006.6.7.発行/P.63)

アルビン・トフラーといえば『第三の波』。
こうした類の本に嫌悪感を感じることはもちろんなく、
むしろ世の動向を知るためには仕事上も、
また今の世の中がいったいどのように動いているのかを知るためにも、
不可欠であって、しかもそれなしでは今の自分の場所も
社会的な諸関連としても、またそれが関係してくる現代的な霊性にとっても
同様に不可欠であることは間違いないのだけれど、
こうした世の動向を知るにつけ、溜息がでてしまう部分も否定できない。
日々の仕事をしていても常に出続けている溜息である。

実際、道元が修行において有していたような態度をとることは、
むしろ現代においてはある種の認識を欠如させてしまうことになる以上、
否応なく日々世の中全体のさまざまなマスとしての状況を
理解するためのさまざまな作業は不可欠なのである。

12年を費やして刊行されたこの「富」についての著書にも、
そのテーマそれそのものは別として、著者の態度に深い真摯な態度を感じるこ とができる。
著者は「金銭経済」のみではなく、別の種類の「富」についてもふくめ、
これからの「富」についてできうるかぎり総合的な動向を
具体的な事実を踏まえながら示唆しようとしている。

しかし、ある意味で「たかが富」だが、「されど富」である。
ぼくには「金銭経済」的な意味での「富」も、
それ以外の社会的な意味での「富」でも、かなり貧困であって、
そういう意味では「富」について述べるにははまはだ不適には違いないのだけれど、
それでも、上記の引用のような状況には、根源的に違和感を感じざるをえない ところがある。

「言葉、言葉、言葉」ではなく、「お金、お金、お金」である。
ぼくには特に借金があるわけでもないのだけれど、
「金利」の動向を機敏にとらえ、いかに有利にお金を増やすか、ということのために、
毎日の時間の大部を優先して使うということには、疑問を感じざるをえないと ころがある。
もちろん、ぼくが「お金」に対してもっている姿勢が
かなり古めかしく、原始的であるというのはあるだろうけれど。
そのくせ、仕事上のマーケティング提案では、それとは矛盾しているのが苦し いのだけれど。

こういう話を思い出す。
アレクサンダー大王とディオゲネスの話だ。

ひなたぼっこをしている哲人ディオゲネスのもとに、アレクサンダー大王が訪れて、
なんでも望みを叶えてあげるから教えを乞う、といった。
そこで、ディオゲネスは「そこをどいてくれ、陰になる」と言った。
また、アレクサンダー大王は、
「なぜ人は乞食には施しをするのに、哲学者には何も与えようとしないのか」と問う。
ディオゲネスは答える。
「自分もいつか盲者のような不具者になるかもしれないと考えるが、
しかし自分が哲学者になるとは決して思わないからだ」
また、あるときディオゲネスは若い男が
「自分は哲学を学ぶに全く不向きだと思う」という愚痴に対して、こう言った。
「よりよく生きようと思わないならば、君はなぜ生きているか?」

お金はもちろん悪ではない。
お金を悪者扱いする人は、お金だけを中心に考える人のアンチに過ぎず、
同種類で反対のベクトルを共有しているにすぎない。
しかし、やはりお金だけのために、そしていろんな意味でそれにつながる 「富」のために、
生きているというのは、理解しがたいところがある。
もちろん、マネーゲームというように、
お金そのものを面白いゲームとしてとらえることもできるが、
それがそんなに面白いことだろうか。

ぼくにしても、ほかにまったく関心がなくて、手持ちぶさたであるとしたら、
ひょっとしたら、目を覚ますとすぐに、インターネットで株価の動きを調べたり、
新聞の経済欄に目を通したり、テレビの経済ニュース番組を見たりもするかも しれないが、
優先順位として考えるとそれらはチャートインするにはあまりに魅力に乏しい。
それよりも、光から生まれた蝶の羽や空から降ってくる鳥の音楽のほうが、
ずっとずっと「よりよく生きる」ために不可欠なことのように思える。
だから、ぼくは「富」に乏しいのだけれど、
そのかわりにぼくには「そこをどいてくれ、陰になる」の類の言葉を持つことが
わずかながら可能になっているように思える。