風のトポスノート579

 

空海とシュタイナー


2006.6.16

 

 空海の時代の「国家」と私たちの世界の「国家」とは異なるものだ。定義や
概念そのものも厳密に区別されなければならない。しかし、個人の生き方を規
定し、所属を迫る枠組みもしくは境界としての「国家」は連続して来た。この
「国家」なるものが時に暴力的な圧力を発揮してきたことを考えれば、人間は
ついに個として連帯する自由は存在にはなりえないのだろうか、という絶望的
な気分に襲われる。
 戦時中、住民を轢き殺してもかまわないから「国家」を守れ、という上官の
言葉に慄然とした経験を持つ司馬遼太郎が、空海というフィルターを通して
「国家」を「くだらない」「煩々たる特殊」なものと書き、その枠組みから自
由な回路を持ち得た「数すくないひとり」として空海を描こうと思ったとする
ならば、ここには意味がある。人が「普遍的世界」において自由を獲得するた
めの条件とは何か、ということである。これを解読しようとするとき、司馬遼
太郎は『空海の風景』の中で、しきりに「天才」という言葉を使っていること
に気づく。
 ・・・
 司馬遼太郎が空海に見ようとした「天才」。それは、歴史社会が作り出した
既存の枠を、ひとり身の実体として超えるという不可能に挑んだ者に与えた称
号なのかもしれない。
 空海が求めた人間の原点とはどこにあるのか。
 十七世紀の哲学者スピノザはその著『神学・政治論』の中で、次のように記
している。
 ーー自然は民族を創らずただ個々の人間を創るのみであり、個々の人間が言
語、法律ならびに風習の相違によってはじめて民族に区別されるのである。
 この言葉と、空海がみずからに託した問題は、共鳴しあっているようにも思
える。
(「『空海の風景』を旅する」(中公文庫/P44-46)

「空海とアインシュタイン」という本がでていたが、
両者を同列に比較するにはかなり無理があるのではないかという印象をもった。
空海と比することができるのは、むしろまさにシュタイナーではないか。
少なくとも今ぼくのなかでは、空海がシュタイナーと並び神秘学の曼陀羅を形 成しつつある。
その総合力においても比することができるだろうし、
思考・言語を超えた世界を示しながらも、
思考・言語を駆使して、格闘したという点でも。
もちろん、空海の時代とシュタイナーの時代の決定的な差はあるのだけれど。

また、空海において決定的な不幸があったとすれば、
空海の営為があまりにも総合的で完成度が高かったために、
空海に続く者が出なかったことだろう。
その点、むしろ空海に比べて完成度の低かった最澄の後には、
すぐれた独自の継承者が続々と排出した。
何が幸いするかわからない。
皮肉なものだ。

シュタイナーはどうだろうか。
ある意味、空海のような不幸を共有しているところもあるように思える。
あまりにスクエアで、組織の守りのために、理解者を排斥することさえ辞さな かった継承者たち。
ある意味、キリスト教初期のスクエアな教徒たちにも似ている。
そしてむしろ排斥された人たちのほうに、可能性が託されたというところもあ るのかもしれない。
しかしどちらにせよ、シュタイナーはあまりに総合的で、
あらゆる学問の精神科学的な拡張を声を大にして叫んでいたとしても、
いまのところ拡張されているようなところはあまり見られない。
シュタイナーの言葉の一部を追うのがせいいっぱいというところ。

さて、国家と個というテーマであるが、それを簡単な図式で片づけることはで きないだろうが、
ぼくのなかでは、まず民族や国家等の霊的ー歴史的なプロセスを理解しながらも、
現代におけるそれらの「既存の枠」を超えることが重要だと考えている。

シュタイナーのいう社会有機体三分節化の
精神における自由、経済における友愛、法における平等のように、
国家が「精神における自由」をスポイルすることは
現代においてはもっとも愚かな錯誤のひとつであることは間違いないのではな いだろうか。
国家や民族によって形成されるべき魂の様態は確かにあるだろうが、
それが過去において重要だったからといって、
現代でもまた将来にも必要であると考えるのは錯誤である。
「血」によって継承される時代があり、
そしてむしろ、「血」に向かって剣を振るわなければならない時代がある。

空海も、そしてシュタイナーも、
当然のごとく、生前のままで立ち止まっているはずもなく、
おそらくさらにずっと先のところで走り続けているだろう。
その場所をできれば知りたいものだが、情けないことに、
少なくとも今は、彼らの残された言葉の一部を追いかけるだけでせいいっぱい というところ。