風のトポスノート578

 

世界をひろげる


2006.6.7

 

「誰にだって自分の世界がありますよ。……いや、自分の世界しかな いのです」
「そうね。……自分の世界だけ。なんとなく悲しくなるよね」
「その世界をひろげるのですよ。誰でもはいれるように。そんな工夫をするた
めに生まれてきたのじゃありませんか」
(陳舜臣『曼陀羅の人/空海求法伝』(上)TBSブリタニカ P.330)

厭世観にとらわれはじめるときがよくあるが、
そのたびごとに自分に言い聞かせることがある。

「その厭世の『世』というのはいったいどういう『世』なのだ
厭うべき『世』があるということは、その外に自分を置いているということだ
そのときの自分のほうの『世』はなんと狭い『世』であることか
その狭い狭い『世』であることをどう思うか
狭いのが厭ならば拡げればいいのではないか」

天上天下唯我独存というときの我には『外』の『世』はない。
故に、我あって我なしということでもある。
衆生救済ということがいわれるとしても
その衆生というのは自分が救うべき対象ではない。
自分が自分を救済しているのだ。
衆生への教えというのもそうだが、
自分が自分を教えている。
自己教育である。

そこまでの我であることは困難であるとしても
自分にとっての『世』がどういう『世』なのかを
つまり「我」がどの範囲の「我」であるのかを
意識しておくことは重要なことだろう。
そして自分が勝手につくりあげた『世』のさまざまな二元論を
自分のなかで統合していくという課題がそこには現れてくる。

壁というのも自分が『世』を囲んでいる壁にほかならない。
つまり壁は絶対的なものではない。
絶対化しているのはまさに「我」にほかならない。

しかし気をつけなければならない錯誤は、
最初から「すべては不二である」としてしまうことだろう。
善と悪、天と地、我と汝…、
それらの二元を絶対化してしまう愚はあるとしても、
それがなければ「我」が立ち現れて来ないところがある。
故に「世」も立ち現れてこない。

キリスト教の愚もそして同時に可能性もそこにあったのかもしれない。
絶対化するということは、むしろ「他」を屹立させてしまう。
故にそこに「個」の屹立が行われる。
混沌に穴をあけていうことで混沌が死ぬという話が荘子にあるが、
その穴をあけていくということにも比せられるところがあるように思える。
世界創造は同時に混沌の死でもあり、なおかつそれは我の屹立である。
しかしその我は天上天下唯我独存の我にむけた
我の自己教育ということでなければならない。

「世界をひろげる」
その「世界」は自分にとっていまどのような「世界」であるか。
そして「世界」でないところにはなにがあるのか。
それを問うこと。