どこに行きたいか? 
      どうやってそこに行くか? 
      と自分を追い詰めるより、 
         自分はどこに立っているか? 
         を確認してみてはどうだろう。 
      すでに自分が立っているところだから、 
      この問いには必ず答えがある。 
         どこへ行きたいか、は、 
      どこに立っているかで変わってくる。 
         自分はいま、どこに立って、 
      どこからものを言っているのだろうか? 
         (山田ズーニー「おとなの小論文教室。 Lesson 299 立脚点」 
      http://www.1101.com/essay/2006-05-10.html) 
               自分はいまどこに立っているか? 
          その問いを発するということは、 
          意識を自分にむけるということでもある。 
          そして、答えや目的が先にあるのではなく、 
          自分を問うことがまずそこにあるということ。 
        山田ズーニーは、「どこに行きたいか?」 
          「どうやってそこに行くか?」を問うよりも、 
          「自分はどこに立っているか?」を問うほうが 
          やさしいような言い方をしているが、 
          おそらくそうではないだろう。 
          多くの人は、自分が今立っているところを知らない。 
        自分の立っているところというのを 
          ごくごく単純に役割や境遇のようなところとして考えるとすれば 
          比較的簡単なことかもしれないが、 
          それを自分の依って立つ認識の枠組みとしてとらえるならば話は違ってくるだろう。 
          たとえば多くの人がそれと知らずに陥っている二項対立的な認識図式にしても、 
          そのことそのものをちゃんと見据えることはむずかしいはずだ。 
        そのむずかしさを避けようとして、紋切り型に近い形で 
          自分の依って立つところを見定めようとするならば、 
          その紋切り型が必然的に連れて行く場所はおのずと決まってくるだろうし、 
          多くの人は、宗教や自分の所属する組織や血縁や民族や 
          そうしたもので自分をその枠にはめて安心立命しようとするのだが、 
          それは結局のところ、「自分はどこに立っているか?」という問いを 
          巧妙に避けることで成立するものだということを知っておく必要がある。 
          いまさらマルクス風の言い方でもないだろうが、 
      それらは自分を見ないための「阿片」なのだ。  |