風のトポスノート576

 

「生き生き」の陥穽


2006.4.19.

 

 特定の思想に影響されて社会的実践に乗り出そうとする人は、権力やカネ、
そしてジェンダー構造などによって抑圧されていない「生き生きした現実」
を、どうにかして“取り戻そう”と躍起になる。当然のことながら、何をも
って「生き生き」とした本来の姿とみなすのかが、そうとうあいまいである。
(…)社会生活上の風習や身振り、装い、物の考え方、そして経済・政治的
行動など、言語を中心とする各種の記号によって構築ーーむずかしくいえば、
エクリチュール化ーーされた営みについては、最初から単純な“ナマモノ”
ではないので、人それぞれの判断にならざるをえない。
・・・
 人間に生まれつき備わっているはずの「生き生き」とした“自然な情”な
るものが、政治や法をふくめた物事の是非を決める最終的な判断になってし
まうと、あまり論理的に筋道立てて考える必要はなくなる。「これこそが、
庶民の生き生きとした感情に見あった答えだ!」という「生き生き」した
「声」がすべてである。簡単にいうと、「生き生き」と大きな声を出したほ
うが勝ちである。しかも、その「生き生きした言葉」というのは、“庶民”
にとって親しみやすく、とても記憶に残る。その言葉は、抽象的に思考する
ことに慣れていない人でも、なかなか忘れにくいものでなければならないの
で、いきおい、どこかで聞いたことがあるような陳腐で単純な言葉になりが
ちである。簡単にいうと、バカでもわかる。いやバカだからこそ、バカのひ
とつ覚えとして覚えられるような言葉である。そういうフォーマット化され
た「生き生きとした言葉」に慣らされていると、特定のキーワードに対して、
パブロフの犬のように「キャイン、キャイン」と単調に吠えるだけの非人間
的な存在に成り下がっていく。・・・
 アーレントにいわれるまでもなく、単純な「生きた言葉」に条件反射して
しまうパブロフのワンくんたちは、ヒトラーのように「生き生きとした言葉」
を語る指導者に弱いので、全体主義体制に自発的に同調しやすい。誰かの言
葉が「生き生き」と耳に響くことがポイントであって、中身は関係ない。
・・・
 そうした「生き生きイメージ商品」を、化粧品や寿司のネタと同じレベル
で必要としている人たちが、世の中にかなり多くいるのは仕方のないことだ
と思う。とはいえ、分析対象を一歩引いたところから観察することを本業と
する哲学・思想の領域では、「生きた言葉」は必要ない。哲学や思想の本を
読んだ読者が、それを「生きた言葉」と感じるのは別にかまわない。だが、
書いている本人がそれを妙に意識して、芸人なみに「生き生きし続け」よう
と身がまえるのは本末転倒である。むしろ、「みんな」が“生き生き”して
いるものだと思っているものが、じつは「生き生きした現在」の本体が過ぎ
去ったあとの抜け殻にすぎないことを、しっかりと指摘するのが思想家であ
る。…世の中の圧倒的多数が、「純朴な庶民」に「生きた言葉」を伝えるも
のが「思想」だと思っているのだとしても、「私」はそういう傾向には合わ
せたくない。バカなワンくんに吠えるためのネタを提供し続けるくらいなら、
田舎でひとり、「死に体」になっているほうがましである。思想というのは、
けっきょく、「死んだ」ものでしかないのである。
(仲正昌樹『デリダの遺言』双風舎/2005.10.25.発行 P.226-252)

仲正昌樹の『デリダの遺言』は、デリダの思想そのものの解説本ではない、
デリダの本のような読みにくいものでもない。
引用でもわかるように、この手のテーマにしては、
まるで講談本のような語り口になっている。

なぜこういうタイトルが選ばれているかというと、
書かれることで「死に体」になっているエクリチュールではなく、
「生の言葉」を「ホンモノ」であるとしてありがたがってしまうような
「音声中心主義」的な傾向への批判がテーマになっているからだろう。
つまり、紋切り型の「生き生きした言葉」には要注意!ということ。
たとえば、小泉首相のような紋切り型に近いような「生きた言葉」をありがたがって
その中身についてはまるで関心のないままに投票してしまうようなノリ。

そういえば、孔子のことばにこういうのがある。
「民は之に由(よ)らしむべし。之を知らしむべからず」(泰伯第八194)
この言葉を誤解して、「民には何も知らせてはならない」と解釈した人があっ たようだが、
実際は、「民衆からはその政治に対する信頼を勝ちうることはできるが、
政治の内容を知らせることはむずかしい」ということを述べたもののようである。

これを敷衍していえば、
「民は何も理解しないし、信頼させることもできないだろうから、
とりあえず“生き生きとした”ように受け取られる芸人の言葉で語っておくの が得策だ」
ということにもなろうか。

しかし、「思想というのは、けっきょく、「死んだ」ものでしかない」ということは
常に念頭に置いておく必要のあることだろうと思う。
つまりどちらにしても「思考」「思想」は過去からやってくるしかないのである。
それだからこそ、それをだれにでもわかる言葉、伝わる言葉で
生き生き語らないといけない、という向きには
とくにこうしたムードになっている昨今は気をつけておかないといけない。

別に、人が「生き生き」するのが間違っているとか、
そうしちゃいけないというのではないことはもちろんで、
できれば「生き生き」と生きられたら素晴らしいと思うのだけれど、
それを芸人的なノリで「思想」としてプロパガンダしてしまうようになるのは
やはりかなりアブナイことなのである。

言葉をもって生きている人間というのはとても矛盾をはらんでいて、
ある意味いちど死んでしまった言葉や思考を
道具にしながら生きざるをえないところがある。
生まれたままに近い余計なことを考えない純粋な人がいちばんかというと
やはり、人はいちどそういう死んだものを自覚的にとらえた上で、
あえてその矛盾を超えていく叡智を身につけるというのが重要な点なのである。
そして、そういう叡智はなかなか身につけられるものでもないので、
せめて、まずはある程度ちゃんと筋道立って考えることを身につけることで、
さまざまな落とし穴のあるムード的な紋切り型の表現には
十分気をつけながらやっていくのが、特に現代ではとても必要なことではない かと思う。
でないと、ほんとうに、引用にあるような、パブロフ犬のようになってしまうから。

みんながそうしているから自分もそうしないと不安になるとか、
その不安の裏返しとして、まったく同じ発想のもとに、
なにかを特権化した気分になりたいがために権威やブランドものに頼ったりす るその変種なども
そのパブロフ犬以外のなにものでもないことにも気づいておく必要があるように思う。