風のトポスノート574

 


2006.3.25.

 

 周公旦の最大の業績は礼の整理改編にある。礼(禮)とは何か。これを
説くにも多言を要するが、作者が思うに、むろん多くの先達の仕事に触れ
てのことだが、礼は古代中国の宗教から社会規範、及び社会システムにま
で及ぶ巨大な取り決めの体系である。後の儒教は仁義礼智忠信孝悌のよう
に徳目の一つとして、礼を礼儀とかマナーの意に落ち着かせる。それも確
かに礼の一部である。
 孔子系の儒は仁を最高の徳とし、孝の実践を最高義とする。宋学は仁が
徳の中心にあり、仁はすべてを含む概念であるとさえする。が、本来は義
智忠信孝悌のほうが礼の中に含まれていたものであり、その逆ではない。
仁は孔子が自らの理想の、曰く言い難い新しい何かを表現しようとして採
用した特別な言葉である。その概念はまたもともと礼の中にあったと言え
なくもない。何故後世の学者がこんな簡単なことを逆にしてきたのか、浅
学の作者には非常な疑問である。
(酒見賢一『周公旦』文春文庫/P.7)

孔子の「仁」は、そこになんらかの上下関係のニオイがあるとしても、
キリストの「愛」にも比することができる徳目だといえるだろうが、
儒教の仁義礼智忠信孝悌のような徳目が挙げられるようになる前には、
周公旦の「礼」があり、その「礼」のなかから、
後に挙げられる仁義礼智忠信孝悌の徳目が出てきたというのは興味深いことだ。
もちろん、周公旦の「礼」は単に礼儀とかマナーの意ではない。

孔子は、鬼神を語らなかった。
周公旦はどうだったのだろうか。
鬼神とはある意味、シャーマニズムでもある。
周公旦の「礼」は、どのようなものだったのだろうか。

想像するのはむずかしいが、
「古代中国の宗教から社会規範、及び社会システムにまで及ぶ巨大な取り決めの体系」
であって、その「礼」から仁義礼智忠信孝悌の徳目が出てきたのであるとするならば、
それはある意味で、古代社会における人智学的な体系だといえるのかもしれない。
もちろん、それは「個」を基本に置く「自由」に基づいた人智学ではないだろうが、
それを準備するための初源のあり方だったと空想してみたいと思ったりもする。
シャーマニズムから脱して人間原理へと向かうための最初のステップ。
礼(霊)学とでもいえるような何か。
それがまずは、地上におけるなんらかのシステムとして提示される必要があっ たのかもしれない。

さて、『後宮小説』で登場した酒見賢一は不思議な作家である。
『陋巷に在り』では、孔子とその最愛の弟子である顔回が主人公となり活躍し、
『墨攻』では、墨子とその一員が活躍し、
この『周公旦』では、孔子が夢にまで見たという至高の聖人、
周建国にあたって大きな役割を果たした周公旦が主人公になり、
殷から周への時代が、生きたファンタジーとして活写される。

中国古代ものといっても、酒見賢一の場合、いわゆる歴史小説というよりは、
その枠組みを超えた想像力の部分が大きい。
『周公旦』での「礼」も、その呪術的なまでのダイナミックなものとして描か れていて、
単なる徳目としての意味を超えたその生々しい部分から
その時代における霊(礼)性についてさまざまな想像力を刺激させられるとこ ろが多い。