風のトポスノート573

 

ひとりであるという豊かさ


2006.1.31.

 

これまでも何度も書いていたことだけれど、
あらためてほぼ日の「ダーリンコラム」に
「Only is not Lonely.」について書かれてあったので、
これはトポスの基本でもあると思い、あらためて書いておくことにした。

何十年も前から、ぼくは、こんなことを思っていた。
ひとりでいるときの顔が想像できる人と、
ひとりでいるときの顔が想像できない人とがいる。
ひとりでいるときの顔が、想像できない人とは、
どうにも仲よくなれそうもない。
・・・
やっぱり「群れ」のなかにしか
いようとしない人と、
「群れ」から離れていることを、怖れない人
というのはいると思う。
・・・
個であること、孤であることから
逃げないで生きる人の姿というものには、
厳しい美しさがある。
・・・
そして、そのうえで、だ。
そしてそのうえで、
ひとりを怖れない人が、
人々の情けを感じるということがすばらしい。
ひとりを怖れない人が、
他のひとりの役に立とうと、走る姿は美しい。

Only is not Lonely.
ひとりであるということは、孤独を意味しない。
ひとりを怖れない者どうしが、
助けたり助けられたりしながら、
生き生きとした日々が送れるなら、
それがいちばんいいと思う。

ほぼ日刊イトイ新聞/ダーリンコラム 2006-01-30-MON

わりと誤解されがちなんだけれど、
ひとりでいるというのがいいというと
孤独なんですね、とかいわれたり、
パートナーがいるじゃないかと、
本質的なことを理解しないでいわれたりもする。
ひとりでいるからこそ、パートナーが可能になるのに

ひとりでいるということは、
わかりやすくいえば、「群れない」ということだ。
そして、群れないからこそできることがあるということ。
「他者」が可能になり、さまざまなものを豊かに学べるということ。

トポスをはじめたのも、
ある意味、群れないでできることはないか
ということが大きかったのではないかと思う。

ひとりでいることができないひとが、
いろいろ集まってなにかした気になったりしても、
またどこからか「先生」のようなひとがきて、
その先生から教えられたりしても、
結局のところ、それは群れることであることが多いのではないかということなのだ。

ひとりでいるということの基本は、
自分で考えるということだ。
それを独善だというひともいるかもしれないけれど、
自由であるということは、
それもふくめて自分で責任を負うということだし、
だからこそ自分で考えるということもできる。

自分で考えないということは、
自由を恐れ放棄するということだし、
責任をも放棄するということだとぼくは思っている。

ある人はいうだろう、
我をなくして人に尽くすひとはすばらしい。
もちろん、すばらしい。
けれど、自分できちんと考えることができて
自由のうちにありながらそうするひとと
ひとりでいられず、ひとりでいれば空虚になるひとが
自由を恐れるがゆえにそうするのとでは、
一見似ているようにみえて、
それはまったく異なっているということだけは確認できたほうがいい。

ひとりでいられるひとしか、
群れのなかに自足しない人しか、
「他者」とともにいることはできないのだ。
ひとりでいられず、
群れることしかできない人には、
実際のところ「他者」は存在しない。

もちろん、ひとりでいたらなにもできないじゃないか、
という批判は飛んでくるだろう。
そのときはこういえばいい。
だったら何もしないでいればいい。
群れることしかできないでひとりでいられないとしたら、
そのひとにとっていちばん大事なことは
なにもしないでいられるかどうか自分に試してみることだ。
そして自分というコップに水を貯めることだ。
それまでからっぽだったコップに水を貯めること。
そのコップから自然に水があふれてくるのを待つこと。
持っていない水を注いであげることはできない。
そのふりをしてごまかすことならできるかもしれないけれど。

世界中の人がからっぽのコップをもって
互いに群れているイメージと
ひとりひとりが自分からあふれでる水を待ち、
その水を注ぎ合うイメージを比べてみるといいかもしれない。

もちろん、これはあくまでも比喩だ。
言いたいのは、「ひとりでいること」の豊かさなのだ。
それは孤独ではなく、その反対。
ひとりでいるひとしか、ひととともにあることはできない。
群れているということは、外からどのように見えようと
それは結局のところ孤独を恐れる亡者でしかありえないとぼくは思っている。