風のトポスノート571

 

感動と夢のために


2006.1.11.

 

タモリ あの、ぼくは
夢とロマンスが大きらいなんですよ。
わかりますか?
・・・
なぜ、俺が、感動したりするのを
控えていたかと言いますと……。
中沢 (笑)
糸井 控えていたんですか!
タモリ 控えてました!
感動する人間ていうのは、
だんだん
感動がなくなっていくと思うんです。
・・・
でも、人類にも、
いつか感動できるようなときが
くるだろうと思うんです。
その日のために、俺は感動しないんだ。
糸井 (笑)すごい!
「レストランに行くからごはん食べない」
みたいなことですね。
タモリ 「夢なんか語らねえんだ」と。
夢があるから絶望があるわけですから。

(ほぼ日刊イトイ新聞「はじめての中沢新一」
 2006-01-10 第22回 タモリさんの感動論)

タモリという人はシャイな人だ。
夢やロマンスや感動がピュアに保存されている。
だからそれをだれにも汚させまいとしている。
その裏返しとしてあの表現があるのだろう。
タモリというペルソナ。

そういえば、ニーチェが真実なんていうものがあるからいけない、
というようなことを言っていた。
だから、ぜんぶ嘘や偽物、間違いばかりになってしまうというのだ。
おそらくそういう発想でタモリは
「夢なんか語らねえんだ」という。
とても傷つきやすいタモリの性格。

しかしその封印された夢やロマンスや感動が開示されるとき、そ
の豊かさは誰にも比べられないのかもしれない。

実際、やたらと夢を語り、ロマンスを吹聴し、
感動を惜しみなく表現することで
失われてしまうなにかというのはあるのだろう。

夢やロマンス、感動を否定しているのではなく、
むしろそれを大切にしようとすれば
どうすればいいかという話だ。
だいじにだいじにとっておいた感受性を熟成させて、
それがほんとうに必要なときにしっかりと使うこと。

涙を流すのだって、
いつもいつも涙を流すくせがついていたら
ほんとうの涙かどうかがわからなくなってしまう。

若い頃はたくさん感動や夢があったけれど、
年を経るにつれてそれがなくなっていくというのはありがちだが、
ほんとうの感動や夢はそういうものじゃないということ。

考え方はひとそれぞれだけれど、
すくなくとも、年を経るごとに、感動や夢がスポイルされていくようなら
それはそんなに豊かであるということはできないだろう。
単調減少または激減していく感動と夢の生活…。

パウロの回心のことを思う。
パウロはあの回心のときに、
魂の底が震撼し存在がうちふるえるほど驚き感動したのだろう。
ほんとうのほんとうが見つかったその瞬間。

タモリが「感動」したといえるときがくるとして、
それがいったい何なのかが少し気になってくる。
そして、ぼくにしてもまた。