風のトポスノート514

 

人の見のこしたものをみる


2004.06.28

 

        人の見のこしたものを見るようにせよ。
        そのなかにいつも大事なものがあるはずだ。
        あせることはない、
        自分の選んだ道をしっかり歩いていくことだ。
        (大正一二年四月一八日、故郷を離れるとき
         宮本常一に父善十郎がメモをとらせた十カ条の十番目)
 
人の見たものを見るのはとても楽なことだし、
人と違わないでいる安心感も持てるかもしれない。
 
マスコミの垂れ流した情報を受け売りしたり
ブランドものを身につけたりするようなことも
自分の位置を確かめるというか
そういう幻想をもつには適している。
 
しかし、ほんとうに大事なことは、
えてして人の見ないところ、
見ようとしないところにあることが多い。
 
なぜそうなんだろう。
という問いもそんな
人の見ないところ、見ようとしないところから
でてくることが多いのではないだろうか。
 
そういうものだ、というのは
「人の見るように見る」
「人の見るように見て安心したい」
ということでもある。
 
人の見ないところを見る、
人の見ないような仕方で見る、
ためには、ある種の恐れを超えていく必要があるのかもしれない。
それは、今の自分のありようを
問い直すことにもつながるからだ。
 
「ありのままでいい」
「そのままの自分を肯定する」
それは、高次の意味では確かにそうなのだろうが、
それを自分を問い直さないための言い訳として使うならば
自分を「そういうものだ」の集合体と化してしまう。
それではただのファッショ的なゾンビでしかない。
無意識的な集合魂の操り人形。
 
ありのままの自分でいいということは、
かりそめの自分を否定するという勇気を持つこともでもあるだろう。
仏教が否定をかぎりなく用い
その論理構造をつくりあげているのもそのためなのだろう。
意識的であるということは、
人が見ていること、見ているあり方だけを
信じ込まないということでもある。
 


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