風のトポスノート512

 

不可逆について〜プレとポスト〜


2004.05.21

 

	いったん写真を見、それを生活のなかに取り込んでしまった人間の眼
	というものは、もう決して元の状態には戻らないものだ。戻らないか
	らこそ、歴史がある。現実は、写真が写す通りのものだと感じ、肉眼
	はその大半を見落としているのだと、人は感じざるを得なくなる。ま
	たそのことは、起こってみれば、まぎれもなくひとつの真実である。
	(前田英樹『絵画の二十世紀』NHKブックス/2004年4月25日発行/P25)
 
写真の登場は絵画を変えざるをえなかったのは事実である。
絵画は、写真のようであるということによっては
その存在意義を持ち得なくなったのだから。
しかし、ここでいいたいのは、絵画の存在意義についてではなく、
人は過去に戻ることはできないということである。
 
たとえば、過去に深い叡智があったとする。
しかしその叡智は失われようとしている、
もしくはすでに失われてしまった。
エデンの園があった。
しかしいまはもうそれは存在していない。
 
誤解されないようにいうならば、
その不可逆の変化というのは、
あるトラウマとなる事件があったとしたときに
そのトラウマを克服できないということではない。
そのトラウマがいつまでも決定的であるということでは決してないのだ。
克服できないというのではなく、その事件の前には戻れないというだけの話だ。
もちろん人はそのトラウマを減ることで何かを得るという可能性はある。
トラウマのプレとポストではその人は変容しているのだから。
 
写真の登場は絵画の意味を変容させることになったのだが、
そういうエポックとなる事はさまざまな形で起こり続けている。
パソコンやインターネットの登場もそうである。
何かが起こってしまったときに、
もう「プレ」の状態に戻ることはできない。
 
「自然に還れ」とか「古き良き時代に還れ」とかいうスローガン?も
実際のところあまり意味のないことである。
可能なのは、かつてそうであったところのものを再認識することを
あらたなエポックとして導入するということだけだろう。
そうすることで人はあらたな状態をつくりだすことになる。
決してかつての状態に戻るということはできないし、
それはすでに意味を持ち得ない。
 
ところで、シュタイナーは「真理と存在を本当に深く評価」できるためには
「究極目標の正反対を体験」することができなければならないといいます。
 
	ヒュベルニア秘儀の場合、自分を取り巻くすべての事物、感覚世界
	のすべての対象が虚妄にすぎないことを、内的に強く意識すること
	が求められました。
	(…)
	当時、ヒュベルニア秘儀参入のために準備していた人たちにとって、
	このことは本当にこころを震撼させられるような、内的な悲劇だっ
	たのです。すべては幻覚であり、マーヤーである、と理論化して言
	う場合、私たちは非常に安易な態度でそう語ります。しかしヒュベ
	ルニアの弟子の準備は、次のように言うところにまで行くのです。
	ーー「幻覚を突き抜けて、真の現実存在にまで到る可能性は、人間
	には与えられていない。」
	(…)
	存在とその幻覚性について言えることは、真理探究についても言え
	ます。弟子たちは自分の暗い圧倒的な感情が真理に到るのを妨げ、
	認識の光を曇らせている、と悟ります。ですから、真理に生きるこ
	とができないのだから、誤謬と虚偽の中で生きるしかない」、と思
	わざるをえない時が来るのです。そのとき、自分の人間性への信頼
	が失われます。人生の或る時期に、存在と真理に絶望するのでなけ
	れば、秘儀参入の時は来ないのです。
	(『シュタイナーコレクション5/歴史を生きる』筑摩書房より/P227-229)
 
なにかがそれまであったものを破壊してしまう。
破壊されたときに、同時にまた
それまで依拠していたものそのものが
誤謬と虚偽でしかないとわかる。
しかもその何かは決して真の現実存在なのではない。
そのとき、人は深い絶望に陥ってしまうことになる。
まさに「内的悲劇」である。
しかしその「内的悲劇」によってしか得られないものがある。
 
写真は外界の真実を写すものではない。
人が見た世界をそのまま写すものでさえない。
しかし写真というメカニカルな機会による視覚によって
絵画はそのありようをかえざるをえなくなった。
それはそのまま人の視覚の変容ということでもある。
 
シュタイナーはラジオを嫌ったという。
録音された音、電気化された音の虚偽性を嫌ったのだろうが、
時代はそういうありようをさらに越え、
音も映像もデジタル信号となってきている。
パソコンで手軽に処理できるような音の群たち。
決して、「生」の音ではないマーヤーの音。
しかし「生」の音だと思っていたものさえも
それは決して「真の現実存在」ではない。
 
私は何を見、何を聞いているのだろう。
あるときふと気づくとすべての感覚の虚妄のなかで絶望するしかない。
しかしそうした絶望からしか出発できないというのも事実なのだろう。
戻るべき真実の世界などというものは存在しないのだから。
 
絶望のなかでさえも踏み出さなければならない一歩がある。
 


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