風のトポスノート511

 

見る力


2004.03.18

 

         十九世紀的実証精神によってうちたてられた科学は、見えない世界を
        一応断ち切ってしまった。学者は新しく発見されたものも含めて、とに
        かく、あるもの、存在するものを土台として問題を展開するというルー
        ルを己に課している。科学主義は無いものについて語ることはできない
        のだ。そのくせ証拠物をたねに想像をめぐらしたりするのに。
         考古学にしても美術史でも、たまたま発掘があったとか、遺跡が多く
        知られている場所や時代については大変細やかだ。ところがそういうも
        のが粗なところは、まるで文化が無かったようにとばしてしまう。遺物
        の出てこない地表の広大なひろがりは圧倒的である。そこに無言の人間
        文化を探らないのは、なんとしても納得できない。
         粘土や石や亀の甲に書かれた歴史は残るが、竹や紙に、より軽やかに
        留められた記録はのこらない。まして記録も遺物も残さなかった文化は。
         人間の根源的に生きる感動、不安とよろこび、信仰と絶望、壮大な実
        現と崩壊……人類学者や考古学者が人類のドラマを、発掘したものから、
        また採集された資料からだけ構成しようとするのは、重い手かせ・足か
        せをつけて羽ばたこうとするかのようだ。それ自体の意味はもちろんあ
        る。だがその条件づけられた作業のなかで欠落してゆく大きなものがあ
        るような気がする。
        (岡本太郎『美の呪力』新潮文庫/平成16年3月1日発行/P13-14)
 
自分の「見る力」の貧困さを痛感することが多くなった。
見えない世界についてはいうまでもないとして
見えるものを見る力の貧困さである。
 
このところ「ほぼ日」で特集されていたことから
岡本太郎の著作などを読むようになっているが、
岡本太郎の圧倒的なまでの見る情熱とでもいうか
そういう人がいるのを知るにつけその思いを強くせざるをえない。
 
シュタイナーがイマジネーション認識等の獲得をいうのも、
あまりに「十九世紀的実証精神」を背景にした「科学主義」が
実質的にさまざまなものを支配しているからということもあるだろうが、
それにしても、とりあえずは見えるものを見ることができなければ、
思考力のない霊的能力の稚拙さのように、
見えないものを見るというのもあまりに空疎になってしまうから、
やはり見えるものをちゃんと見る力をつけていきたいものだと思うのだ。
 
最近集中的に読んでいる宮本常一の著作を読んで驚くのは
その「見る力」の大きさと繊細さだ。
たとえば、『空からの民俗学』(岩波現代文庫)には
写真一枚に写された田の形を見るだけでその地の歴史や
そこで使われた農具などを具体的に見ることのできる宮本常一がいる。
逆に農具ひとつのかたちを見ることからだけでも
その農具が使われる土地のことが見えてくるのである。
 
哲学は無知の知からはじまるというところがあるが、
いかに自分が見えていないかということに気付くことから
はじまっていくものの可能性はたしかにあるだろう。
 
石ひとつみても、
それを見る人によってその見え方には
途方もない違いがあるだろう。
石ひとつに宇宙的な広がりを見ることができる人から
それをただの「石ころ」としか見えない人、
いやそこに石があることにさえ気づかない人まで。
 
自分がいかに見えていないかに気づくこと。
そして見るためのさまざまな営為を怠らないこと。
おそらくはそこからはじまって、
見えないものを確かに見る力も育っていくことができるのだろう。
 


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