風のトポスノート510

 

ことばの変容


2004.03.10

 

         私が年寄りたちからいろいろの話を聞くようになったとき、明治維新
        以前のことを知っている人たちとそうでない人たちの間に話し方や物の
        見方などに大きな差のあることに気付いた。たとえば維新以前の人たち
        には申しあわせたように話しことばというよりも語り口調というような
        ものがあった。ことばに抑揚があり、リズムがあり、表現に一種の叙述
        があり物語的なものがあった。維新以後の人たちのことばは散文的であ
        り説明的であり、概念的であった。そしてその傾向が下るにつれて次第
        に強くなる。知識を文字を通して記憶していくようになると、説明的に
        なり散文的になっていくもののようである。こうした旅にもそれをはっ
        きり知ることができた。
        (宮本常一『民俗学の旅』講談社学術文庫/P109)
 
シュタイナーは『現代の教育はどうあるべきか』(人智学出版社)という
イギリスのイルクリイでの講演録のなかで、
西欧文明における教育の三つの発展段階について述べている。
 
ギリシア人の教育の理想はジムナスト(体育教師)だったが、それは
「丁度植物の根を適切に植えてやりさえすれば、
あとは陽光と温度によって根が自然に花開くまで成長するのを待てばいいように」
その前提として肉体の調和を目指した。
それが中世においてはジムナストからレーター(雄弁家)への転換が起こり、
「雄弁家として演説によっていかに影響を及ぼし得るか」が重要視され、
さらにそれが知性を志向するようになり、
「知的な人間に対する評価と賛美が生じる」ようになることで
「博士」が理想とされるに至る。
ジムナスト(体育教師)からレーター(雄弁家)へ、そして博士へ。
 
上記の引用の宮本常一の明治維新と以後の変化について読みながら
こうしたシュタイナーのいう西欧文明における教育理想の変化を思い出した。
もちろん日本における変化を西欧におけるそうした変化と
単純に比較することはできないのだが、
「ことばに抑揚があり、リズムがあり、
表現に一種の叙述があり物語的なものがあった」在り方から、
「散文的であり説明的であり、概念的」なことばの在り方への変化に
注目することは、身体と魂との関係の変化に関連して考えても、
思いのほか重要なことのように思われる。
 
そこで何が失われたのか。
そして何が獲得されたのか。
 
豊かな語りを失うというのは、
語りを由来させる物語を生み出す土壌を失うということだ。
それが明治維新といえば「国民」がつくりだされた時期でもある。
「国民」になるということは、「標準語」がつくりだされ
それで教育されるということでもある。
ことばが「標準」化されることによって
身体的なものさえも「標準」化されるようになる。
運動会がはじまり、音楽に合わせて行進させるようになる。
 
その変化によって、「抑揚があり、リズムがあり、
表現に一種の叙述があり物語的なものがあった」ものが、
「散文的であり説明的であり、概念的」になる。
そして、「記憶」の在り方も、教育の「標準」化によって
「文字を通して記憶していく」ような在り方へと変化していく。
口承的なものが次第に失われ、
口承によって伝えられてきたものは
学問的には価値がないものとして評価されがたくなる。
 
それは、「土壌」にしっかり根差しているものから離れる
ということなのだが、ひょっとしたら、
それは何らかの可能性を同時に意味しているのかもしれない。
もちろん、そのためには、宮本常一のようが営為を通じて
失われてしまおうとしているもののなかにある豊かなものを見出し
それをあらたなかたちで再創造させることも必要になる。
 
単なる根無し草になり、
昨今のようなバーチャルだともいえるような環境へと至り
その不毛さのなかでただ彷徨するだけになりかねないなかにおいて、
かつての豊かさのなかへと帰っていくことではなく、
おそらくそれをさらにあらたにつくりだしていくことへと
向かう必要があるということでもある。
 
それが稚拙な形で現われるとき、
ある種のナショナリズム的な物語をつくりだそうとするような
そんな衝動にもなるのかもしれないし、
そうした反省を踏まえることによって、
大塚英志のように、根無し草を前提としながら
「おたく」から展開していく新たな物語の積極的なありようを
模索していくようなそんな方向に向かうのかもしれないが、
そこで重要なのは、シュタイナーも示唆しているような
精神科学的なありかたをしっかりと踏まえながら、
ただ過去に戻るような在り方ではないかたちを模索することなのだろう。
 


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